紅と黒。


 昼はシュウマイ弁当が出た。


 このところ職場ではイベントが続いており、昼食だけ弁当が支給される。弁当を食べ、午後の仕事を少ししてから出張のため職場を後にする。


 駅までの坂を歩き、電車に乗って横浜へ向かう。車内では携帯本の丸谷才一「星のあひびき」(集英社文庫)を読む。先週あたりから鞄に入っていて、まず堀江敏幸氏の解説を読み、最初の「評論的気分」としてまとめられた13本の文章を読み、今は続く「書評35本」を読んでいる。国語学者大野晋「日本語の源流を求めて」(岩波新書)の書評ではお馴染みの日本語=タミル語起源説への肩入れを熱く語り、井上ひさし作品の評では、その戯曲の見事さを語り、手を抜くことのない文学賞選評を褒めたたえ、類まれなるパロディ精神を顕彰している。読み進めながら書評される側もする側もすでに故人であることに寂しさのようなものを感じてしまう。昨年世を去った丸谷氏を追悼するかのように本が次々と出ていて、新潮文庫の新刊である「文学のレッスン」はすでに購入済みだし、批評・エッセイ・書評・挨拶をまとめた新刊「別れの挨拶」(集英社)もそろそろ書店に並ぶ頃だろう。文藝春秋からは「丸谷才一全集」の第一回配本が今月中にはでると聞く。全巻欲しいとは思わないが、評論と書評とエッセイの巻は手元に置いておきたい。特に『オール読物』などに連載されていたエッセイたちはすべて網羅してもらい年代順に並べてほしい。丸谷作品で一番好きなのは正直これらのエッセイ群なのだ。モダンな小説や読みでのある書評、そしてジョイスの翻訳などは丸谷氏亡き後もそれなりの後継者が出てくると思うが、あの薀蓄満載のちょっと気取った文章で書かれた、読みながらなんだか賢くなったような気分にさせながら読後すっと頭の中から消えて行ってしまうエッセイは一代限りのものだろう。リタイアした後に丸谷氏が勧めるように『源氏物語』の原文を大野晋編「岩波古語辞典」を引きながら読む気はあまりしないが、全集に収録された結構な分量の丸谷エッセイをちびちび読みながら過ごすのは悪くないと思う。



星のあひびき (集英社文庫)

星のあひびき (集英社文庫)



 横浜で下車して有隣堂に寄る。地元の書店では手に入らない本をここで見つけるつもりなのだ。

胞子文学名作選

胞子文学名作選



 前者は飯沢耕太郎編「きのこ文学名作選」(港の人)の姉妹編。こういっちゃなんだけど収録作品よりもその本としてのタタズマイにやられる本。読みやすさを謳った本があふれる中でそれを犠牲にしても作品の雰囲気をカタチとして表すことを優先したその心意気に感じてしまう。


 後者は恩師のひとりと思っている(直接教わったことはないが学生時代から面識はある)紅野謙介先生の本。紅野先生の他に佐藤卓己氏と苅部直氏がそれぞれ1冊ずつを担当する全3巻の「物語岩波書店百年史」の第1巻だ。紅野先生の本は「書物の近代」(筑摩書房)も「投機としての文学」(新曜社)も「検閲と文学」(河出ブックス)もみな面白かった。今回は岩波書店の物語でもあるのだからなおさら興味深い。



 くるりの曲で知られる京急に乗り換えて金沢文庫へ。ここが今日の出張場所。会議の途中で窓の外に虹がかかり、会議を終えて外へ出ると空はきれいな夕焼けだった。この町にくるとちょっとドキドキしてしまう。それは別に美人が多いとか、昔振られた女性が住んでいるとかいうわけではなく、店の名前に「文庫」が多く使われていて「文庫歯科」という看板を見ても一瞬「古本屋か!」と思って気持ちがハッとしてしまうのだ。


 帰りの電車でも「星のあひびき」を読み継ぐ。大岡昇平作品を取り上げた文章で「戦後日本最高の作家は、やはり大岡昇平なのではないか」と言い、「野火」や「花影」を称賛している。ぼくはあまり大岡作品を読んでおらず長編小説ではあと「武蔵野夫人」と「事件」を読んだことがあるくらいだ。確かに「野火」は優れた作品だと思うが正直そこまですごいかと言われるとちょっとピンとこない。むしろ僕が好きなのは日記体エッセイ「成城だより」(講談社文芸文庫)だ。これは掛け値なしで面白い。老人と呼ばれる年齢になっても好奇心の留まるところを知らず突っ走っていく姿は感動的でさえある。

 そういえば小林信彦氏がスタンダールパルムの僧院」(新潮文庫)の大岡昇平訳を読みやすいと推薦していたことを思い出した。小林氏が勧めるこのフランス文学を代表する長編小説のひとつをまだ読んだことがない。新潮文庫は持っているのだが字が小さくて読む気になかなかならない。文字が大きい改版を出してくれないものだろうか。


 地元に戻っていつもの本屋も覗いてみる。実は、有隣堂で探していた本が1冊見つからなかったのだ。それは広瀬洋一「西荻窪の古本屋さん 音羽館の日々と仕事」(本の雑誌社)。もしかしたら今日この本屋に入荷しているのではないかと一縷の望みをたくしていたのだが、昨日同様棚にその姿はなかった。その代わりこれを見つけてしまったので思わず購入。


  • 「〈戦争と文学〉案内」(集英社




 これは全20巻で完結した「コレクション戦争と文学」の別巻にあたり、戦争文学の通史と年表、そして主要長編作品の紹介とコレクションの各種索引がついたもの。コレクションそのものは持っていないのだが、この別巻だけ持っていればどの巻に誰のどの作品が入っているのかがわかるから読みたければ図書館に行って読めばいい。こういう別冊はそれだけ持っていても意味がある。それに通史は150年を9人の執筆者が手分けをして書いており、先ほど名前を挙げた紅野先生も「序」と「太平洋戦争前後の時代」を書いている。また、国文学雑誌などでよく名前を見る研究者たちに混ざって『本の雑誌』でよく名前を見る杉江松恋「エンターティンメント小説と戦争」や大森望「日本SFが描く戦争」といったとっつきやすい文章も入っているのもうれしい。



 夕食を食べてから帰宅。今日買ってきた「物語岩波書店百年史」のあとがきを読んでいたら、最後に黒岩比佐子さんへ捧げる旨の言葉が書かれていた。この第1巻は本来黒岩さんが書く予定であったのが、その死でそれが不可能となり紅野先生に白羽の矢が立ったということらしい。ともにちょっとした面識のあるお二人の間で交わされたバトンのリレーにうれしいようなさびしいような気分になった。