マイ・ブルー・ヘブン。


 まずは昨日の話から。


 昨日は一日イライラしていた。


 職場で「思うように周りが動いてくれない病」になり、「なんでこの人はいつまで経っても打ち合わせもしなければ、仕事の段取りを確認しようとしないのだろう」とか、「なんでこの人は以前から何度も言っていることを締切直前になってもやろうとしないのだろう」とか周囲に対する不満が募り、ついには「結局まともに仕事をしようとしているのは自分ひとりだけなのじゃないか」と思うに至る度し難い病である。その内実は仕事の遅い後輩に強く指示したり、小言を言ったりして嫌われたくないという思いから「この仕事は任せたのだからここは口出しせずに黙っておこう」という後輩を育てるいい先輩面に逃げたりしているだけで、実際、自分も後輩たちもどちらもいい方向には行っていないと思う。「おらおら、早く仕事やっちゃえよ。こちとら迷惑なんだよ」とがなって机のひとつも“バン”と叩いて、「じゃ!」と言って、椅子を〈蹴って〉帰ってしまえばすっきりするのかもしれないが、それができれば苦労はない。「お疲れさま」とちいさく挨拶して退勤した。



 帰宅して昨晩(2日)にHTBで放映された「水曜どうでしょう」最新作初回放映をオンデマンドで1日遅れで観る。北海道ローカルの番組なので神奈川では放映していないのだ。前回の2010年より当たり前だが出演者が3年歳をとっている。編集がかなり緩い感じで(もちろんそれは選択された緩さなのだが)、ぐだぐだ、だらだらと進んでいく。でもやっぱり、面白い。全7回以上にはなりそうなのでこれから二か月は楽しめそう。イライラ解消も兼ねて2度観てしまった。



 では、今日の話に移ります。


 今日は職場が休業なので朝7時半まで寝ている。その後もぞもぞ朝食をとりながら、朝ドラ「ごちそうさん」を初めて通しで観る。主人公を演じる杏の子供時代を演じている子役の子がかわいい。なるほど「八重の桜」の最初と同じようにかわいい子役で視聴者の耳目を集める作戦だななどと勝手な憶測をして楽しむ。

 「ごちそうさん」の後は、録画してある「あまちゃん」を数話分観た。実は7月末から8月初めにかけての2週間英国出張していたためその間の「あまちゃん」は録画しておいたのだが、2週間分のロスをそのままにして続きを観るのも面白くないのでその後も録画はしていたものの一挙に2週間以上分をまとめて観るひまはなく、気が付けば9月も末の最終週に突入し、さすがに我慢できずにこの週だけ観てしまうという暴挙に出て、それでも鈴鹿ひろ美の歌う「潮騒のメロディ」に感動してしまうという失態を演じることになった。つまりほぼ2か月分中抜けの状態で感動するというなにやら自分の感動に「うすっぺら」感をどこか抱かざるを得ない状態に決着をつけるため、このところ毎日数話分ずつ未見の回を観ているという状態なのだ。だからもちろん「あまロス」などになりようがない。



 その後シャワーを浴びて着替え、洗濯物をクリーニング屋に出してから神保町に向かう。



 先日買いそびれたこの本を東京堂で購入。

西荻窪の古本屋さん 音羽館の日々と仕事

西荻窪の古本屋さん 音羽館の日々と仕事



 それから古本屋つながりでこれも。


 いつものように三省堂4階へ。おや、様子が変わっている。エスカレーターの降り口前にあった特設コーナーがなくなり、レジに向かう通路の左側にあったミニコミや本と本屋に関する本のコーナーもなくなっている。そしてレジそのものも消えてすべて一階の集中レジ方式へと変更されていた。これは耐震工事のための一時的措置である旨の張り紙がしてあったが、工事終了後はどのような形に変わるのか楽しみでもあり、ちょっと不安でもある。



 うどんの丸香で肉うどんと下足天を食べてから早稲田に向かう。もちろん目指すは穴八幡の境内で行われている早稲田青空古本まつりだ。


 せっかくの古本まつりなのだが地下鉄の早稲田駅を出ると小雨がぱらついている。境内に上る階段の左右にある文庫・新書の棚には青空ならぬブルーシートが掛けられていた。境内の会場はテントで守られているため小雨は関係なし。何時ものように棚に張り付くと小一時間ぐるぐると回ってしまう。以下の本を購入。


 1冊目は先日読んでいた丸谷才一「星のあひびき」(集英社文庫)でマルケスの短編小説「大きな翼のある、ひどく年老いた男」が面白いと書いてあったので。この短編集の冒頭にこの作品が載っているのだ。


 2冊目は田中氏編集の小津安二郎資料三部作(と呼ばれているらしい)の「小津安二郎全発言」(泰流社)と「小津安二郎全日記」(フィルムアート社)は持っているのだがこれだけまだ手元になかったため。


 3冊目は源氏鶏太という作者名から察しのいい方はすぐにわかると思うが、佐野繁次郎装幀本。黒い書き文字と白と赤を大胆にあしらった装幀が目に飛び込んできて久しぶりにサノシゲ本が欲しくなった。中身も僕が生まれた翌年から『婦人公論』に連載された小説だから息をし始めたころの日本の空気が感じられそうでちょっと興味がわく。



 レジで向井さんと岡島さんに挨拶。向井さんには三省堂でもらってきた『辞書のほん』(大修館書店)というPR誌を渡す。ここに辞書にかかわる創作を文月悠光さんと木村衣有子さんが書いている。木村さんの作品には別れた男はみんな焼き鳥を箸で串からはずすタイプばかりだというくだりがでてくる。つまり、焼き鳥を焼き鳥として楽しもうとせず、周りに親切にしていることに満足しているだけで焼き鳥そのものを味わおうとしない男たちを物足りないものとして描いているのだ。自分にも心当たりがあるのでちょっとドキッとする。


 帰路の車中でガルシア=マルケス「大きな翼のある、ひどく年老いた男」を読む。日常の中にひょいと年老いた天使が倒れている。ぬかるみに翼がめり込んで一人で立ち上がれない汚い天使が。汚い年老いた天使は汚い年老いた天使として地上の鶏小屋に留まり、そしてその汚く年老いたままでまた去っていく。誰もそれを疑わず、日常の中に飲み込んでしまう。はたして彼は天国に帰れたのだろうか。“マジックリアリズム”という言葉を久しぶりに思い出した。


 次に取り出したのは広瀬洋一「西荻窪の古本屋さん 音羽館の日々と仕事」。音羽館には何度も足を運んでいるので興味深くするするとページをめくってしまう。均一台のシールにつけられたカタカナの意味。二つある入口のうちほとんどの人が左側から入ること(僕は毎回右から入るのでマイノリティだ)。とりあえず第1章を読んだ。読みやすい文章で古本屋としての自分の矜持が肩肘はらずに書いてある。ここだけ読んでもこの店とその店主の広瀬さんが信頼にたるということがよくわかる。章ごとに音羽館に関係した人のインタビューを載せている構成も面白い。地元駅に着いて本を閉じるのが惜しかった。