還暦の完食。

 朝起きると還暦になっていた。

 

 今日が60歳の誕生日というわけだ。

 

 トースト2枚とアップルジュースにカフェオレの遅めの朝食を済ませて、出かける。

 

 天気が良くて、自宅マンションの階段から富士山がクリアに見える。3月とはいえ、風はまだ冷たいが、VANJACKETのダウンを着込んできたので問題なし。

 

 今日の目的地である銀座に向かう。以前から還暦になったら自分への誕生祝いとしてモンブランのマイスターシュテュック149という万年筆を銀座の伊東屋で買おうと決めていた。149と言えば多くの作家が愛用したことで知られている。これまでペリカンスーべレーンM800を最高峰(最高値)として手頃な国産万年筆を中心に何本も入手はしているが、いつかは149をという思いがあった。そのためこれまでモンブランの万年筆は1本も購入していない。

 

 思い出してみれば、中学生くらいの頃にモンブランの万年筆を父親から貰ったことがあった。父親が誰かからプレゼントされたキャップが黒(鉄製)で軸が黄色(プラスチック)のものでずうっと透明なケースに入って父親の机の上に置かれていたものだった。本好き(物語好き)で小説家に憧れていた中学生にとって万年筆で原稿用紙に向かう姿はカッコいいものだったから、使わないなら譲って欲しいと頼んでもらったものだった。当時すでに“万年筆はモンブランがいいらしい”“小説家はモンブランを使っているらしい”という噂を聞いていたため、その万年筆がもしかしたらモンブランではないかとロゴを注視するとそこには“MONT BLANC”の文字が。英語すらおぼつかない中学生にはそれが“モントブランス”としか読めず、「なんだモンブランじゃないのか」とその万年筆に対する興味が薄れ、あまり使うことなく、引き出しに入れっぱなしになり、結局その後処分してしまった。後年その万年筆がカレラというモンブランの万年筆だということを知るのだが後の祭りだった。

 

 同じ時期に初めて銀座の伊東屋に行った。地元の文房具屋にはコクヨ製の茶色い罫の原稿用紙しか置いておらず、小説家が使うような特別な原稿用紙が欲しくて銀座まで行き、初めて緑色の罫の原稿用紙を購入して、茶色い罫以外の原稿用紙があることに感激した思い出がある(レポート用紙型の緑罫のコクヨ原稿用紙はその当時まだなかったはず)。

 

 院生時代に修士論文を書くため、いい万年筆を買おうとして行ったのも伊東屋だった。その時に購入したのはペリカンスーべレーンM400。論文の出来と万年筆の良し悪しは比例しないのだと思い知らされたが、M400はいまだに手元にあってまだ使っている。

 

 

 これらの思い出から149を買うのは伊東屋と決めていた。だから銀座に向かうのだ。

 

 車中は読みかけの北村薫「中野のお父さんと五つの謎」(文藝春秋)。この“中野のお父さんシリーズ”もこれで4作目となった。このシリーズを愛読しているのはこれが「謎解き小説」の姿をした「書物エッセイ」だから。以前にも書いたが丸谷才一のエッセイが持っていた“書の気”に溢れたエッセイを継承しているのは北村薫が嚆矢だろうと思う。今作も夏目漱石芥川龍之介松本清張久保田万太郎などの文学者以外にも円朝圓生文楽志ん朝などの噺家の話題も豊富に出てくる。両方が好きなこちらには目がない話ばかり。作中に出てくる書名を眺めていると中公文庫の頑張りがよく分かる。文藝春秋から出ている本だが、読むと中公文庫に感謝したくなるから面白い。

 

中野のお父さんと五つの謎 (文春e-book)

 

 銀座に着いて一目散に伊東屋へ。ここの万年筆売り場にはモンブランのコーナーがあって求めていた149も置いてあった。一緒にペンケースとインクも買う。ペンケースは赤にした(還暦だからね)。伊東屋の会員カードを作ったら今回のポイントでインクは入手できた。

 

 

 目的は達したので、あとは銀座を楽しむ。まずは恒例の教文館書店へ。

 

-QBB「古本屋台2」(本の雑誌社

-村上春樹中国行きのスロウ・ボート」(中央公論新社

 

古本屋台2

中国行きのスロウ・ボート (単行本)

 

 

 前者は『本の雑誌』で連載中の古本漫画。毎号楽しみに読んでいる。登場人物として知り合いが出てくるのも楽しい。

 後者は絶版状態になっていた単行本を復刊したもの。文庫本でも持っているし、これまで何度も読んだ村上春樹の最初の短編集だが、安西水丸画の鮮やかなカバーは大きな単行本がよく映えるので購入する。この時代の村上春樹は僕にとっては長編よりも短編作家としての方が魅力的であったことを思い出す。

 

 

 銀座周辺にはいろいろな思い出があるため、ただ歩いているだけで頭の中にいろいろなことが想起される。無くなってしまった近藤書店、イエナ書店、旭屋書店スターウォーズを観に来た東劇を初めとしてマリオンや銀座文化で観た映画の数々。煉瓦亭、銀座スイスなどの洋食。リプトンティルームや太宰・安吾の通ったルパンなどの店等々とキリがない。60年生きるとはそういうことなのだろう。

 

 

 昼を過ぎ、せっかくだからダメもとで日曜もやっている資生堂パーラーへ行ってみる。案の定予約で店はいっぱい。オムライスでも食べようと思っていたのに。日曜の銀座で昼飯時に飯を食おうなんてハードルが高すぎるため、地下鉄で数駅先の神保町へ出ることにする。

 

 

 神保町の日乃屋でカツカレーを食べる。還暦でもカツカレーを食べる元気と気力を持ちたいと思う。とりあえず完食。ただ、ライスの量に対してルーがすこし少ないのではないかと思う。

 

 

 書泉グランデを覗いたら限定復刻のこちらが売っていたので買っておく。

 

-ファニー・グラドック「シャーロック・ホームズ家の料理読本」(朝日文庫

 

シャーロック・ホームズ家の料理読本 (朝日文庫)

 

 前から予約受付中であったので、予約をしていないと買えないかと思ったら、予約なしでも買えた。テレビの料理番組で知られた著者がホームズの下宿先のハドソン夫人になってホームズが食したであろうヴィクトリア朝の料理のレシピを披露した本。

 

 

 書泉グランデの向かいにある喫茶伯剌西爾へ。今日は好きな街で好きな店に入る日として堪能しようという感じ。ぶらじるブレンドとシフォンケーキ。教文館で貰ってきた『図書』3月号やさっき買った「シャーロック・ホームズ家の料理読本」の前書きなどを読む。

 

 

 帰りの車内も北村薫本の続きを読む。日本近代文学館の喫茶コーナーのメニューに《坂口安吾の特製生チョコレートケーキ》なるものがあるらしい。安吾とチョコレートケーキの結びつきが謎だ。学生時代に通った時にはそんなメニューはなかったはず。機会があったら一度行ってみたいと思ううちに読了。間をおかず最寄駅に着いた。