プロローグ

 小学 5年生の頃、図書館でポプラ社の 「シャーロック・ホームズ全集」を見つけて食いいるように読んだ。『赤毛組合』や『六つのナポレオン像』 などの作品にワクワクしながら、舞台となった見知らぬロンドンという場所に興味をもった。小学6年生の時、初めて文庫本を買った。夏目激石の 「こころ」(新潮文庫)だった。『此処 (ここ)』や『其処(そこ)』まで漢字で書いである文章を読んでいるとなんだか大人になった気がして、こんな文章を書く作家に関心を持つようになった。中学 ・高校とこの2つを結び付ける事なく読み続けていたが、ある時漱石が留学していた倫教とシャーロック・ホームズの物語に出てくるロンドンとが同じ 時代の同じ場所であることに気づいた。その時からいつかは実在の漱石と架空のホームズが歩いた百年前の倫敦(ロンドン)に行って見たいと思っていた。
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 今から百年ほど前の倫敦で漱石は地下鉄を使っていた。当時の漱石と同じように地下鉄パンク駅でセントラルラインからノーザンラインに乗り換える。目的地はクラパム・コモン駅。2年間の留学期間中漱石がその半分以上を過ごした5番目の下宿を訪れるつもりである。地下鉄のホームで待っていると 、レールの軋む音とともにノーザンラインの電車が入ってくる。屋根が黒で、車体はもとはシルバーだったのだろうが、今や白っぽいネズミ色にしか見えない薄汚れた電車である。カラフルな広告で彩られたホームに登場した この古ぼけた車体は、まるで映画の 中で突然挿入される白黒の回想シーンのように百年前の昔から突如現代に迷い込んできたように思えてしまう。車内に乗り込むと、床や窓枠が木でできているし、使い込まれでところどころ擦り切れたシートはもともと何色だったのか知る由もないといった様子で、漱石留学当時から走っている電車ではないかと疑いたくなる。
 クラパム・コモン駅に着く 。ホームに降り立つと、乗ってきた電車は,ホームの端にポッカリと開いた暗い 穴の中へ、車体の下から数回白い閃光を発しながら、まるで百年前に戻って行くように消えてしまった。
 改札口を出て、8月の午前中のさわやかな陽光に照らされてみると 、そこは確かに現代のロンドンである。 自の前に広がっているのは駅名にもなっている 「クラパム・コモン」(コモンは共有地のこと)の緑の公園である。漱石の倫敦時代の日記にも何度か登場する 。漱石と同じ場所を歩いているという実感が段々と湧いてくる。クラパム・コモンに突き当たる道のひとつに「ザ ・チェイ ス」という通りがある。この通りの81番地が漱石の下宿だった所だ 。数分歩いたところで81という番号のついたドアを発見する 。写真を撮ろうとカメラを取り出していると 、そのドアが開いて人が出てくる。なんだか悪いことをしている気がしてあわててカメラを隠してしまう。何ということだろう、百年前に漱石が住んでいた家に今も当たり前のように人が住んでいるのだ 。住人の姿が通りの向こうへ消えるのを待って、夢中でシャッターを押す。たぶんあの窓のあたりが漱石の部屋だったのだろう。家の前の自動車さえ消してしまえば、先程と同じようにあのドアを聞けて漱石が気難しげな顔で出てきてもまったく おかしくない雰囲気である 。周囲の建物も当時と余り変わらないらしく、自分が漱石とほぼ同じ景色を見ているのだと実感できるのがうれしい。
 激石の下宿とは通りを挟んで斜め 向かいになる80Bには 「倫敦漱石記念館 」がある。滞英歴20数年になる 日本人の恒松郁生さんが、私財を投じて1984年に開設したこの記念館で、恒松さんの話を聞くのも今日の目的のひとつである。20分という約束で始まった恒松さんの話は、止まることをしらず昼休みの閉館時間まで2時間続いた。話は尽きず、漱石留学当時からあるという近くのパプで昼食を一緒に取りながら 、さらに2時間。「漱石も何度かこの店で食事をしたと思いますよ」 という一言で、またもや百年前に簡単にタイムスリップしてしまう。漱石のこと以外にも様々な楽しくためになる話を聞かせていただいた。パブを出て、記念館に戻りながら、気になっていた郵便ポストの事を聞いてみる 。漱石が百年前に使っていたポストがこの下宿近くにまだあるはずなのだ。「ほら、そこ」と恒松さんが指した場所には真っ赤な六角形のポストがごく普通に立っていた。漱石が日本に向けて何通もの手紙を投函したポストが、今も現役で働いている姿は何とも感動的で、漱石と私の間にあった百年の 時をまた一瞬で消してしまった。
 恒松さんと別れ、ひとり歩き出す。漱石が自転車に乗る練習をしたというラヴェンダーヒルからバタシー公園まで歩く つもりである。急ぐ必要はない。百年前の倫敦(ロンドン)はまだ昼下がりである。