エピローグ

 明治の文豪にして,今や千円札の顔ともなった夏目漱石が,1900年に文部省の最初の官費留学生として英国に留学してから100年近い年月が経とうとしている。昭和50年代末に国文学研究者の前田愛らによって都市空間論が漱石研究に導入されて以来,漱石文学における「東京」をテーマとした研究が数多く発表されたが,そこに登場する明治40年代当時の東京の町並みを現在の私たちが目にすることはほとんど不可能であると言ってよい。しかし,漱石が,その2年間の留学時代に歩いた町並みや彼が住んだ下宿の建物などを私たちは現在のロンドンでほぼ当時に近いかたちで見ることが出来るのである。これは,東京とロンドンの戦火における消失の度合いの違いやその建築素材の違いなどによるものであると同時に,日本と英国の過去の遺産に対する考え方の違いの表れでもあるだろう。漱石にとって悩みの種でもあった日英両国人の性質の違いが,このような形で現在の漱石研究者・愛好家たちに喜びを与えてくれているのはうれしい皮肉といえる。


 1997年 7月25日から8月25日の約1ヶ月に渡っておこなった今回の海外研修の目的は,夏目漱石の文明観 ・西洋観を形作ったと考えられる100年前のロンドンの姿を出来る限りこの目で追い,漱石の足跡を辿ることによって彼の作品に及ぼした影響やその思想の形成過程を探ってみることであった。その意味では先述のごとくロンドンという都市はまことにうってつけの場所であったといえる。加えてロンドン以外に留学時代の漱石に強い印象を残した場所としてスコットランドのピトロクリーとフランスのパリを選び,調査の対象とした。


 ロ ンドンにおける調査は大きく2つのパートにわけておこなった。まず,第1のパートは漱石がその2年間の留学期間中に滞在した5カ所の下宿跡の踏査であり,第2のパートは,そのロンドン時代の日記に登場する漱石が訪れ,関心をもった場所の踏査である。

第 l のパートの5カ所の下宿は以下の通りである。
(1)76 Gower Street
(2)85 Priory Road West Hampsted NW6
(3)6 Flodden Road Camberwell New Road SE5
(4)11 Stella Road Tooting SE17,GH5
(5) 81 The Chase Clapham Common SW4
上記の内(3)の下宿だけが,当時の建物が無くなっており,それ以外の4カ所は当時の建物がほぼそのままの形で現在も住居として使用されている。

 (1)の建物は,漱石がロンドンに到着した当初2週間ほど滞在したところで,正確には下宿というより,今で言うB&B (ベッドアンドブレックファースト )のようなところであった。大英博物館ロンドン大学のすぐ近くにあり, 後日漱石ロンドン大学の聴講生になったのには,この時,間近に大学を見ていた親近感がその選択理由のlつになったとも思われる。このフラット形式の建物は現在は一般の住宅になっ ており,隣には 「DILLONS 」 といった大型書店が並ぶ文教地区的な雰囲気をたたえた場所となっている。

 (2)は実質的には漱石の最初の下宿といっていい場所で,前の場所がロンドンのシティの中心部であ ったのに対して,ロンドン西側の郊外にあたる場所である。漱石が「東京の小石川といふ様な処」というように閑静な住宅地に第2の下宿はある。この建物は一戸建で,「赤煉五の小じんまりした二階建」である。漱石は 「裏の部屋を一間借り受け」て,40日ほど滞在するが, 漱石の書き残したものを見るとあまりいい印象を残していないようである。彼の文章から感じられるこの下宿の陰欝な雰囲気は,私が見る限りにおいてまったく感じられない。おそらく彼の感じた陰欝さは,場所的なものではなく, 彼が初めて体験する ロンドンの冬の陰欝さであり,家主であるマイルド家の家庭的な暗さであったのだろう。現在この家は日本のある塾の持ち物となっており, 日本から留学している大学生が共同生活をしているということである。そのせいか,家の手入れも余りなされておらず, 家の庭に廃車が雨ざらしになっているなど家の印象は荒んだ感じで残念であった。

 (3)の場所は,ロンドンの南東にあり,地下鉄ノーザンラインのオーバル駅から10数分歩いたところにある。前の下宿が駅から数分だったのに比べると不便な場所であるという印象は否めない。私がこ の場所を訪れたのが 日曜の午前中だったこともあるのだろうが,ほとんど人の姿をみることがなく ,まるでゴーストタウンのようであった。漱石はこ の場所を 「東京で言えばまず 深川」,「橋向うの場末」,「不景気な処」と評しているが,その印象は現在も変わっていない。先に述べたようにこの第 3 の下宿だけ残念ながら当時の建 物が残っておらず, その跡と思われる場所には小振りの団地といったような集合住宅がたっている。漱石はこの場所に 4 カ月ほどいて,家主の引っ越しにともない第4の下宿へと移っている。

 (4)の場所は前のオーバル駅よ りノーザンラインの駅を 7 つほど先へ行ったツーチングブロードウェイ駅か ら20分ほど歩いた所にあ る。漱石は「聞キシニ劣ルイヤナ処」と言っているが,現在見るとこれまでの場所よりは栄えており, 賑やかではあるがそんなに悪い場所という印象はない。ただ,確かに,近 くに公園といった散歩好きの漱石が好むような場所はな く ,後述する倫敦漱石記念館の恒松郁生氏の話ではつい最近までこの周辺は寂れた余り雰囲気の良くない所だったということである。漱石のいた建物は安っ ぽい感 じの赤煉瓦の 2 階建で,6世帯程が入っている。当時漱石のいた部屋はステラロード5番であったが, その後の番地変更で現在は 11番になっている。彼は本当にこの場所が嫌だったらしく ,2ヶ月ほどで この下宿を引き払っている。

 (5)の家は漱石の留学期間中で一番長い1年半近い時聞を過ごした下宿である。(3)のオ ーバル駅と(4)のツーチングブロードウェイ駅の聞に位置するクラパムコモン駅か12分ほどの住宅地の中にある 3世帯が くっついた形の一軒家であ る。漱石自身それほど気に入っていたわけではないようだが,この周辺の中では比較的高所得者のいた場所であり,近くに散歩に適したクラパムコモンの公園もある。また,家主のミス・リールにも好感をもっていたらしい漱石は, 結局その留学生活の大半をこの下宿で過ごしている。この下宿の前には漱石の使ったと思われるヴィクトリア朝時代のポストが現在もそのまま残っており, 現役で活躍している。また,漱石が神経衰弱の治療のためおこなった自転車の練習を描いた 「自転車日記」に登場するラヴェンダーヒルがこの近くにあり,実地見聞をしてみるとそのなだらかな傾斜は自転車の練習にも適ていただろうことが確認できた。


 この第5の下宿の斜め前には,倫敦漱石記念館がある。 この記念館は滞英歴20数年の恒松郁生氏がその私財を投じて1984年に開設したもので,年間2000人ほどの日本人が訪れる という。今回の研修では漱石の研究家でもある館長の恒松氏から2 度に渡って貴重なお話を聞くことができ た。また,貴重な資料も見せていただいた。その 1つに漱石が留学当時自を通していたと思われる 「WINDSOR MAGAZINE 」 の 1902年 10月号に載っている RUDYARD KIPLING という作家の書いた 「THE CAT THAT WALKED BY HIMSELF」という小説があった。恒松氏はこの小説が漱石の「吾輩は猫である」のプレテキストのひとつであると考えている。この短編小説には「I am the cat who walks by himself 」というフレーズが数回繰り返されており,少なくとも「吾輩は猫である」の冒頭の「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」 というフレーズとの対応は十分に考えられると思われた。
 恒松氏は記念館近くにある創業がヴィクトリア朝のパブにも案内してくれ,このパブが漱石留学当時か らあり,漱石が食事などで利用 した可能性が高いことを教えてくれた。この5番目の下宿時代の日記は僅かしか残っておらず , ここでの漱石の生活は書簡と先の 「自転車日記」という文章から僅かに知られる程度であ るため,当時の漱石の生活がしのばれる具体的な場所の存在は とても貴重である。残念ながら, このパブ内に漱石の痕跡を示すようなものはなかったが,漱石が自転車練習をしたラヴェンダーヒルに面した場所にあるこの店と漱石が何らかの関係を持った可能性は高いと思われる。


 次に第2のパートに移ると,漱石の日記に登場する彼が興味関心を持った場所として,まず挙げられるのはともに帰国後その訪問記を短編小説として発表している ロンドン塔とカーライル博物館である。その他にも漱石の小説 にインスピレーションを与えたと考えられる名画が収められているナショナル・ギャラリ ーにテイト・ギャラリーなど彼が繰り返し訪れた場所が挙げられる。 もちろんそれら以外に も激石の日記に出てくる場所は枚挙にいとまがない。今回の研修における都合 20日間のロンドン滞在中に,出来る限りそれらの内の数多くの場所を自分の足で歩き,目で見ることを心がけた。その全てに関して触れても煩雑になるだけなので,ここでは先に触れた主要な場所に限って報告することにする。
 ロンドン塔を漱石が訪れたのは,彼がロンドンに着いてまだ3日目の1900 年の 10月31日のことである。彼は第1の下宿に滞在しており,そこから歩いてロンドン塔までいっている。小説「倫敦塔」の記述を信じ るならば漱石が塔を訪れたのはこの1回きりである。「倫敦塔」は陰影の深い幻想譚であるが,私が訪れた夏のロンドン塔は, 明るい陽光に照らされ, ここで幾多の血が流されたというような暗さをほとんど感じることが出来なかった。ただ,「倫敦塔」でも細かく扱われている ボーシャン塔の壁にある囚人たちの メッセージはその部屋の狭さとともに胸に迫るものがあった。これらの メッセージを読んだ漱石が,過去への想像の翼を広げ,エーンズウォースの小説やドラロッシの絵画の助けを借りて「倫敦塔」という小説を書こうとしたその思いは充分理解できた。囲む様々な雑音に悩まされていたことに思い至り,漱石の創作意図の一端を見て取ることができた。
 その「倫敦塔」を書く上で漱石が参考にしたドラロッシの絵画「ジェーン・グレイの処刑」がロンドンのナショナル・ギャラリーにある。漱石も留学中に最低3回はここを訪れていることがその日記から分かる。「ジェーン・グレイの処刑」は漱石が見てから100年近い時間が経っている現在もその美しい姿を保っている。特に目を惹くのはジェーンの純白のドレスである。その光輝く白さは処刑後に飛び散ったであろう描かれてはいない鮮血の赤を暗示させる。漱石がこの絵をモデルにしながらも描かれていない血の滴りを「倫敦塔」の中に書き込まずにいられなかったのも分かる気がした。
 このドラロッシの絵のように,後の漱石文学に影響を与えた絵をより多く漱石が見ている場所がテイト・ギャラリーである。ミレーの「オフェーリア」は「草枕」のモチーフの1つとなり,ウォータハウスの「シャロットの女」は「薤露行」を漱石に書かせた。また、テイトの誇るターナーコレクションは漱石に強い印象を残し、彼の作品の中に繰り返し登場することとなる。このテイトもナショナル・ギャラリーもともに入場は無料であり,金銭的に余裕の無かった当時の漱石にとって,西洋の名画たちを気軽に繰り返し鑑賞できたことが,後の彼の文学に多くの財産を残したことは間違いない。芸術に対する英国のこうした姿勢は現在も変わっておらず,私もその恩恵に浴し,この2つのギャラリーを繰り返す訪れることができた。
 漱石はその「カーライル博物館」の中で,4度カーライル博物館を訪れたと言っている。その真偽のほどは明らかではないが,彼が初めてこの場所を訪れたのが1901年8月3日であることはその日記から判明している。私が今回この場所を訪問したのは8月1日であり,ほぼ漱石と同時季の訪問となった。博物館の訪問者名簿を見せて貰い,漱石と同行した池田菊苗の署名を見る。かなり薄くなっているが「K.Natume」という筆記体の文字が確かに確認できた。専門家ではないので筆跡鑑定はできないが,以前に見た漱石の筆跡とよく似ていると感じられた。この博物館はヴィクトリア朝の建物の内部と調度品を保存してあり,当時の生活を具体的に知ることができるため参考になった。実際に内部を見て回って感じたのは漱石の記憶力の良さと観察力の確かさである。「カーライル博物館」において漱石はカーライル家の細かい間取りや調度に目を向けながら,この英国を代表する哲学者が俗悪な現実の侵入(それは騒音として現れた)に苦しんだ悲喜劇を自在な筆致で描いている。予想以上に狭くて質素なカーライルの家を見ながら私は,この短編小説を書いた当時の漱石が「吾輩は猫である」の苦沙彌先生のように家を取り囲む様々な雑音に悩まされていたことに思い到り,漱石の創作意図の一端を見て取ることができた。





 続いて,今回の研修で調査した ロンドン以外の漱石ゆかりの地について述べておきたい。まず, 帰国直前の1902年10月に漱石が短期間逗留したスコットランドの ピトロクリーを訪れた。これまでの研究ではこのピトロクリーの町外れにある旧ディクソン邸・現ダンダーラックホ テルが漱石の逗留した場所であるとされているのだが,今回幸運にもそのダンダーラックホテルに泊まることができた。この漱石のピトロクリー行きにはその動機や誰の紹介によるものなのか等いまだに謎の部分が多い。残念ながら今回新しい発見と言えるものはなかったが,漱石が大都会のロンドンを離れ,この自然に固まれた山間の小さな村でいかに心を慰められたかは充分に感じとることができた。漱石はその 「永日小品」の中の「昔」という文章でこのピトロクリーの事を描いているが,「漱石の小品で西洋に関するものの中,無比の美しさをもつもの。」(小宮豊隆) と言われるように,彼の留学体験の中でもこの場所の印象がずば抜けてよいものであ ることは疑い得ない。長い海外生活で神経衰弱気味であった漱石にとって, このスコットランドの自然はまたとない浄化作用を彼に与えてくれたであろうと思われる。ロンドン滞在中も毎日のように緑の多い公園等の場所を熱心に散歩していた漱石にとって自然とは彼の心の疲れを癒してくれるものであったのだろう。
 パリは漱石が日本からロンドンへ向かう途中で 1週間ばかり滞在した場所である。たった 1週間の短い間だったがこの街はロンドンに負けないくらいの強烈な印象を彼に残している。それは,漱石が留学中に日本の文部省に対して期聞を延長してパリでフランス語を学びたいという希望を出していることからも窺われる。漱石が訪れた 1900年のパリは万国博覧会に沸いていた。漱石も連日博覧会に出かけて,その絢爛豪華な西洋文物の波もまれている。まさに彼はこのパリにおいて初めて本当の西洋物質文明に出会ったといっていい。私が今回の研修にパリを入れたのは漱石が初めて触れた「西洋」をこの目で確認したいと考えたからである。
 漱石は当時のパリの象徴とも言えるエッフェル塔に登った感激を妻に書き送っている。「名高き エフェル塔の上に登りて四方を見渡 し申候。これは三百メートルの高さにて人間を箱に入れ鋼条にてつるし上げつるし下す仕掛に候。」 1900年にも現在と同じ276m の3階展望台に上がることができた。現代に生きる私にとっても目のくらむ高さである。そこで漱石は当時の日本では 持つことのできなかった高所からの俯瞰,つまり鳥の視点を獲得したはずである。それは飛翔のイメージであり,夜のパリのイルミネーションの明るさとともに善くも悪くも来るべき西洋的な未来を彼の目に焼き付けたと思わる。これは,ロンドン塔が彼に過去への下降のイメージを喚起させたのと丁度正反対の位置にあるといえる。漱石が歩いた万博会場周辺には万博に合わせて建造されたグラン・パレや プチ ・パレ,そして現在はオルセー美術館となっているオルセー駅など,時代の最先端を行く様式美の建築物が立ち並んでいた。それらは現在の目で見て歩いた私にとっても色あせない魅力を発していた。当時の漱石は自分が時代の切っ先に立っているという思いを肌で感じていたに違いない。

おわりに
 なにやら羅列的でまとまりのない報告になってしまったが,最後に今回の研修で見えてきた問題点を漱石文学との関わりから以下にいくつか述べてお きたい。

(1)漱石の5カ所の下宿は最初の場所を除きロンドンの郊外と言える場所にある。その郊外から彼はロンドンの中心部の大学や家庭教師のクレイグ先生宅へ通ったり,本を求めに出かけたりしていた。漱石文学の中で繰り返し登場する「都市/郊外」というモチーフ(「三四郎」・「門」)の原型がこのロンドンでの生活にあるのではないかという考えをもった。

(2)「草枕」に典型的な形で現れる主人公の画工を息 苦しくさせる 「都会」とやすらぎを与えてくれる「山村」/「田舎」の対照的な関係はロンドンとピトロクリーの関係に対応している部分があるのではないか。「草枕」の山村が水のイメージで満たされているように,漱石におけるピトロクリーも必ず水の記憶(「泥灰をふくんだ渓水」・「青藍の水」)とセットになっている。また,「草枕」において重要な役割を果たすミレーの 「オフェーリア」 を彼が見たのもこの留学時代である。

(3)漱石文学における「都市」観へのロンドン・パリの影響の強さ。例えば 都市を交通網が網の目のよ うに張り巡らされた場所として認識するやり方(「それから」・「彼岸過迄」における市電)はロンドンやパリの地下鉄などの在り方の影響を感じさせる。「馬車・電気鉄道・地下鉄道等網の如くなる有様寔に世界の大都に御座候。」(パリからの鏡子夫人宛書簡)。 また,漱石が都市を俯瞰的にとらえる傾向はパリやロンドンでの高層建造物からの俯瞰の経験がその基礎を築いたのではないだろうか。


 以上のように漱石の留学が彼の文学に及ぼした影響は数限りなく様々なレベルで見いだすことができる。今回の研修によってそれが実感できたと同時にまだ自分がそのごく一部分に触れたに過ぎないことも身を持って感じた。それは今後の課題として,機会があれば,継続調査を続けていきたいと思う。