起きて三条、寝て三条。

 この夏ずうっと心身を拘束していた仕事が今日の午後に終わった。


 この仕事のためにこの夏は映画、ライブなどにも行けず、先週の日曜日に相生橋のたもとでおこなわれた「あいおい古本まつり」をちょっと覗いたのが唯一の楽しみというような日々だった。


 今度の土日も仕事でつぶれるわけだし、このままではまったく夏休みというものを取らずに終わってしまうのはなんとも癪にさわる。そこで昨晩衝動的に京都四条烏丸東横インに予約を入れた。そして今日の午後、仕事を提出した時点で退勤し、そのまま新幹線に乗って京都に向かう。明日は仕事の予定がない。この一泊二日の京都旅行がこの夏の唯一の休みなのだ。


 新幹線の中では稲見一良「猟犬探偵」(光文社文庫)を読む。以前、岡崎武志さんがメールマガジンでこの稲見さんが書いた「セント・メリーのリボン」を原作とした漫画、谷口ジロー「猟犬探偵 セント・メリーのリボン」を褒めていたのを読んで漫画の方を手に取ったのだが、これがすばらしく、同様に岡崎さんが推薦していた原作の短編小説も読んでみたがこれもグッとくる佳品であった。そのため、「セント・メリーのリボン」で初登場した猟犬探索専門の探偵・竜門卓とその相棒犬ジョーのコンビを主人公とする短編集「猟犬探偵」に手を伸ばしたというわけだ。



猟犬探偵 1 セント・メリーのリボン (愛蔵版コミックス)

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セント・メリーのリボン (光文社文庫)

セント・メリーのリボン (光文社文庫)

猟犬探偵 (光文社文庫)

猟犬探偵 (光文社文庫)





 主人公の竜門が住んでいるのが大阪府能勢の山中で、探索の舞台が京都や大阪であるこの作品は西に向かう列車の中で読むには丁度いい。フィリップ・マーロウや初期のスペンサー物に通じる良質のハードボイルドを読む心地よさ。3分の2を読んだころに京都着。


 すでに時刻は夕方に近い。東横インに荷物を置いてすぐに町に出る。四条通りの書店で買ったエルマガジン社の「京都地図本」を手に河原町六曜社に入り、今日の夕食をどこで食べるかを思案する。いつきても同じタイプの細身の文学少女系のウエイトレスが置いて行ったアイスコーヒーを飲みながら地図本を見ていると隣の大学生たちの会話が聞こえてくる。そのうちの一人は東京の大学に進学しており、その大学の校舎の一部が偶然僕の住んでいる街にあるためお馴染みの地名が何度も出てくる。せっかくその街を離れ京都まで来たのにとちょっと苦笑する。


 夕食場所の決定は先延ばしにしてまずは橋を渡って三条のブックオフに行く。ここは京都の古本屋・善行堂店主の山本善行さん御用達の店。この店で山本さんは何度もお宝をゲットしている。古本者にとっては聖地みたいな場所。まあ、僕も京都に来るたびにこの店に来ているのだが残念ながらお宝と呼べるものに出会ったことはない。もちろん今回もさして期待せずに文庫本の105円棚から見始めた。いつものように「あ行」から「わ行」に向けて全部の棚に目を通す。「か行」の「こ」のところまで来て黒い背表紙が横広に続いている部分にぶつかる。目に親しい新潮文庫小林信彦本の背表紙だ。その中に新潮文庫の黒とは違う黒があることに気付く。「オヨヨ大統領」シリーズで馴染み深い昔の角川文庫版小林信彦本である。しかし、その背に「オヨヨ」の文字はなく、「虚栄の市」と見える。そして目を左右に動かすと何冊かをはさみ「冬の神話」というタイトルが、まさかと思ってもう一度見ると数冊離れて「監禁」という名の本もあった。



 それから会計を済ませて店の外に出るまでの短い時間は夢か現実か自分でも定かでないような幸福感なのか不安感なのかわからないような不思議な精神状態であった。三条の橋を渡り、鴨川沿いのスタバに入って川床にしつらえた席に着き、さっき買ってきた3冊をまたじっくりと眺める。昭和50年から51年にかけて出版された定価220円から300円の古い文庫本なのだが、小学6年から小林信彦本を愛読してきた者にとっては信じられないお宝だ。さすが古本ソムリエのお膝元、まさに聖地だと実感する。







 やっと気持ちも落ち着き、暮れていく鴨川の風景を楽しむ。川の流れが宵闇に包まれていき、川岸の川床席に灯りがともり、川辺には夏を味わうカップルたちが肩を寄せ合って座っている。ああ、京都に来たんだなあ、これが京都の夏だよなあと思う。この気持ちが味わいたくてここに来たのだ。


 それから木屋町通りを歩く。すでに夜になり、高瀬川沿いには提灯、灯籠の明かりがともり、道の反対側の店々の照明と呼応するようにぼんやりと通りを照らしている。どこかの店に入るでもなく、夜の木屋通りを歩くのが好きだ。この雰囲気はやはりここでしか味わえない。京都に来てよかったとじみじみ思う。


 新京極まで戻り、スタンドで煮込みハンバーグ定食を食べる。酒を飲まないので申し訳ないのだが、客が陽気にビールを傾けるこのレトロな店の雰囲気が好きなのだ。


 人の多い四条通りを避けてすでにシャッターを下ろした錦市場を通って宿まで帰る。さっきまでの活気の余韻を残したこの時間のこの道が好きで来るたびにここを通る。これも京都の楽しみなのだ。


 部屋に戻るとお宝騒動の疲れかぼんやりしてしまう。まだ今日あったことが現実であるかがしっくりと理解できていない。寝て起きて明日になったらこの3冊は消えているんではないかとバカなことを考えてしまう。


 ベッドで「猟犬探偵」の残りを読み終えてから就寝。