ラッキー嬢を探せ。


 かれこれ20年以上同じ坂道を上り下りして職場へ通っていると毎朝同じ人たちとすれ違う。そのうちで明確に顔を覚えている人が何人かいるが、それがほとんど女性になるのは男の習性としていたしかたあるまい。


 ではその女性たちは他の人たちに比べて容姿の点で抜きん出ているかと言えば一概にそういうわけではない。ではそれらの女性が点景として背景から浮き出て見えるのはなぜかと言えば彼女たちはみな昔の知り合いに似ているのだ。


 だから、それらの名も知らぬ人たちに勝手に名前をつけて識別している。小学校の同級生に似ているカトウさんとスガさん、大学時代の後輩に似ているミヤザキさんなどなど。


 これらの人たちの何人かは制服を着た学生時代に僕とすれ違い始め、大学(もしくは短大)に進んで私服となり(この時代に生活が変わり僕の視界から消えてしまう人もいる)、就職してまた規則正しく朝の通勤ですれ違うようになった人たちだ。


 その中でもカトウさんはちょっと特別な存在だ。大きな目と広いおでことすらっとした長身が特徴の小学校時代の同級生似の女性は土日以外のウイークデイによくすれ違う女性なのだが、家を出る時間に微妙なムラがあり、僕が歩き始める駅前近くで会うこともあれば、職場の入口前でギリギリ遭遇ということもある。だいたい家を出る時間に15分くらいの幅があるらしい。僕が駅から職場まで歩く時間が10分と少しくらいであるため、会わない日も当然出てくることになる。毎日会うのであれば特に気にはならないのだが、たまに会わない日が出てくると「おや、今日はどうしたのだろう?」と思うようになる。そんなことを何年も続けているうちに彼女とすれ違う日はラッキーな日、そうじゃない日はダメな日という占いのような存在になってしまったのだ。


 なんでこんなことを書いたかというと先週から今週の月曜日にかけて通常1週間に3、4回はすれ違うカトウさんの姿をまったく見かけなかったのだ。そのためなのだろうか、先週から今週にかけて仕事で嫌なことばかりが起こり、「人間てなんて厄介で困った存在なのだろう、自分を含めて」という思いにどっぷり首まで浸かっていた。


 ところが今日久しぶりにすれ違ったのだ。しかも人通りの多いいつもの歩道側ではなく、道路の反対の車道側をひとり歩いてくるではないか。「おお、これは今日がラッキーな一日であることを明瞭な形で僕に示そうとしているのだな」とうつむき加減の心にとってうれしい光景であった。


 しかし、今日もいいことはあまりなかったのである。彼女と会えればこの厄介な日々も変わるのではないかと期待をしていたのだが、世の中そう甘くはなかったようだ。ただ、ひどいことはあったがものすごくひどいことはなかったのでそれはラッキーなのではないかと考えてみることはできそうだ。


 カトウさんに会えた日も会えない日も本屋には行く。

 角川文庫の新刊が出ていた。

文房具を買いに (角川文庫)

文房具を買いに (角川文庫)

 鹿島本は前月の「大槻ケンジが語る江戸川乱歩」と同じNHK教育テレビ「私のこだわり人物伝」のテキストを文庫化したもの。このシリーズはこれから角川が文庫にしていくのだろうか。以前はNHK出版からライブラリー版の本で出していたと思うのだが。

 片岡本は著者の手になる文房具の写真もすばらしい1冊。いきなり10冊以上ならんだモレスキンの手帳の写真が目に飛び込んでくる。それだけで心揺さぶられる。明日の大阪出張にはモレスキンのノートを持っていくことに決めた。