本(本屋)というカササギ。

今日は七夕だ。職場の同僚との話に、牽牛と織女は川を挟んでどうやって会うのだったかという話題になる。そう言われてみると、一年に一回7月7日に会えるとは覚えていたが、どのような方法によってなのかは覚えていない。同僚は鳥が出てきたはずだと言う。ネットで検索してみると、カササギが飛んできて橋を掛けてくれるのだそうだ。そうかカササギの橋であったのか。たぶん、ネットで知ったこの話以外にも七夕伝説には色々なバリエーションがあるんだろうな。
帰宅してニュースを見て驚く。ロンドンで同時多発テロが発生している。ダブルデッカーの屋根が吹っ飛び、チューブでも爆発が起こっている。爆発の起こったラッセルスクエアには何度か行ったことがある。10年近く前、ひと月ほどロンドンで過ごしたことがあり、その時ロンドンの街をあちらこちらと歩き回った。歩き疲れると近くの公園のベンチで休息をとる。ラッセルスクエアという四角い小さな公園でも何回か足を休めた。周囲をホテルが取り囲み、近くにはディッケンズの住んでいた家もある。アイスクリームを食べた。鳩が歩き、大学生と思われる女性が熱心に読書に耽っていた。老人の姿も多く見られた。無差別な爆弾テロとあの場所がなかなか結びつかない。思想や教義といったものが単なる思考停止にしか人を導かないのならそんなもの手についたアイスクリームを拭ったティッシュと一緒に公園のゴミ箱に捨ててしまえばいい。
テレビを消して、今日買ってきた雑誌に目を通す。

ダ・ヴィンチ』に連載している北尾トロさんの「トロ・リサーチ」で南星堂書店が開店するまでをリサーチしている。この書店に関しては7月6日の「web読書手帖」でも触れられていた。40代になる西原さんという男性が会社を辞め、自分の夢であった新刊書店を開業に漕ぎ着けるまでの道のりをトロさんが時には手伝いながら取材したものだ。個人が書店を経営することの難しさ、理想と現実のギャップなど昨日読んだ岡崎武志さんのエッセイを思い出す。それでも夢を実現させようとする西原さんの姿は、同年代の僕に何かを突きつけてくるようだ。何やら背中をどやされたような気持ちになった。現実は厳しいだろう。船出したばかりのこの小さな書店の未来に幸あれと思わずにはいられない。こんど足を運んでみようと思う。
同じ『ダ・ヴィンチ』の記事の中に「本に囲まれて仕事したい!」というコーナーがある。hanaeが図書館で働くページや書肆砂の書の寺井さんやユトレヒトの江口さんのインタビューをもとにした記事も載っている。ここに使われている写真はすべて紗のかかったメルヘンチックなものになっている。つまり、女の子が大好きなお洒落な仕事・書店員(図書館司書)という雰囲気が漂う作りなのだ。先ほどのトロ・リサーチとこのページとのギャップが興味深い。なにかバランスをとろうとしているような感じもする。
文學界』では小谷野敦氏の連載「上機嫌な私」を読む。今回は“本屋が消えてゆく”と題し、町の書店が消えていくことを惜しむのは、大都市及びその近郊に住んでいる人間のノスタルジーに過ぎない、ネット書店が便利ならそちらを活用すれば良いのだという内容。昨日読んだ『論座』に寄せていたアンケートの答えを詳しく説明したものと言っていい。本は昔から取り寄せか配達してもらうものであり、町の書店に行って買うというのは昭和30年代に都市部で始まった歴史の浅い習慣に過ぎないという指摘は面白い。ただし、本を情報源、資料として扱う立場から見ればそれで構わないのだが、本と関わることを楽しむ立場から見れば、それじゃつまらないのである。都市と田舎、ネット書店と町の本屋、両方あるから面白いし、どちらかを選べる余裕があるほうがいいに決まっている。資料としての本を必要としている人はごくごく少数だと思う。多くのものにとって本というのは暇つぶしの道具なのだ。ここでいう暇つぶしは悪い意味ではない。暇があるとは余裕があることの裏返しだし、それをつぶせるだけの面白いものがあるということも喜ばしいことだ。
ロンドンにいた時には必ず散歩に本を持って出た。英語の話せない僕がひとりで一ヶ月もかの地にいられたのは、本と本屋があったからだ。公園のベンチで休むときは文庫本を開いたし、いい加減な英国鉄道の長い待ち時間も本があれば平気だった。何も予定のない日は、チャリングクロスの古本街や町の本屋を覗いて暇をつぶした。ロンドンで偶然再会した女性と一緒に本屋へ行き、本の話で楽しいひと時を過ごせたのも懐かしい思い出だ。本屋がなければ、話題が弾まず、味気ない再会となったことだろう(これは、僕の個人的な資質の問題でもあるのだが)。
牽牛と織女を結ぶカササギの橋のように本と書店は人々を豊かに結びつけるネットワークになるものだと思う。
一見、他を排除する個人的な営為ともとれる読書という行為が、その喜びをともに語る相手を求め、ブログなどによる他者に向かっての表現を生み出し、それによって新たな人々の繋がりができてくるように。