若者と電球は。

朝から雨。空梅雨が続いていたと思えば、大雨が降る。この世はすべてバランスなのだ。
早目に仕事が終わったので、眼科へ行く。1年半ほど前から、眼の回りの皮膚が赤く炎症を起こすようになり、眼科医からアレルギー症状との診断を受け、目薬と塗り薬を処方されている。薬が切れたら来いと言われてはいるのだが、仕事の都合でなかなか来れず、3月にもらった目薬はとうに切れてしまっていたのだ。前回と同じ薬を処方してもらうのにコンタクトを外し、さまざまな測定器の前に座らされ、裸眼からレンズを色々替えた視力検査をされ、ただ自分に起こっている現象を言葉で追認するだけの診断を受け、お金を2千円ほど払ってやっと1枚の紙切れ(処方箋)をもらうという行程を経なければならない。なんとかならないのかな。ただいつも混んでいる眼科なのだが、今日はすいていて待ち時間が少なかったのが救いだ。
家電量販店により、先日から切れている洗面所の電球を買う。
本屋で2冊。

吉村本を購入したのは解説が小林信彦氏であったことが大きい。最近新潮社のPR誌『波』での連載が完結した小林氏の小説、「東京少年」が本として出版された時にこの作品を読むためのウォーミングアップになるのではないかと考えて購入。ちくま文庫にしては小品という感じの薄手の本。500円という値段は文庫としては安くないが、ちくま文庫として考えると低い値段だと感じる。
『考える人』は特集が“「心と脳」をおさらいする”。特集にはほとんど興味はないのだが、坪内祐三さんの連載が色川武大氏を取り上げ、小谷野敦氏と佐藤卓己氏の新連載が始まるとなるとやっぱり買ってしまう。
坪内さんのエッセイでは、こんな引用に反応してしまう。
《日本人の主体性は規範じゃなくて心なんだ。千変万化する個人の心。心を納得させる、というよりバランスといった方がいいかな。いつもバランスをとる。天皇陛下万歳といって死ぬだろ。あれは天皇の問題じゃなくて、戦死という納得しがたいものを少しでもバランスをとる、その工夫なんだ》(色川武大「ぼうふら漂流記」)
なんだか日々の自分の心の持ちようを言い当てられているようで素直にうなずいてしまった。坪内さんは色川さんが旧約聖書に興味を持って読んでいたことに触れ、「私の旧約聖書」(中公文庫)の中で西洋の名作が旧約とのキャッチボールによって生まれたものだと考えていることを紹介している。この間、ブックオフで「私の旧約聖書」を手に入れたばかり。生前単行本にまとめられることなく、本となったのはこの文庫が初めてなので、色川ファンには見逃せない1冊だろう。
小谷野氏の新連載は「売春の日本史」。氏は、遊女や江戸時代の吉原についての本は沢山あるのに、売春の通史と呼べるものがない日本歴史学の専門分化を憂いて、自らその通史に挑戦しようとしている。《人文学の成果というのは、一般の読書人に読まれてこそ意味がある》と言い切る小谷野氏の姿勢は正しいと思う。強気な物言いやマニアックなこだわり方につい目が奪われがちだが(実際僕もそれを面白がっているのだけど)、氏の文章は平明で読みやすい。専門家ではない一般の読書人(僕が読書人に入れてもらえるかはわからない)にも読める文章をという意識をもって書いている姿勢には好感が持てる。
佐藤卓己氏の連載は「セロンに惑わず、ヨロンにもかかわらず 日本世論の系譜学」というもの。佐藤氏の書くものに以前から興味を持ってはいるのだが、「『キング』の時代」も「言論統制」もまだ積ん読のままだ。今月にはちくま新書の「八月十五日の神話」も出てしまう。どうしたものか。
家に帰り、洗面所の電球を付け替える。急に室内が明るくなった感じ。ところが、今度は居間の蛍光灯が1本切れる。最近の蛍光灯や電球は若者と同じでキレやすいのかな。
「市井作家列伝」を読み継ぐ。小山清の作品を読みたくなる。それから小田原に来ることを「来原(らいげん)」と書いているのが面白い。