明と暗

デイリー・スムースで林哲夫さんが、岡崎さんが自分の日誌をブログ化しようと考えているというニュースを伝え、それを読んだ退屈男さんが今日の「退屈男と本と街」にその件を取り上げている。そこで、岡崎日誌ブログ化のきっかけにこの晩鮭亭日常がなったのではないかとおほめいただいている。そう言っていただけるのはうれしいのだが、現実は多くの人が思っていたことを、僕が偶然あのタイミングで書いたというだけで、事の機はすべて熟していたのだろうと思う。それは、僕の書いたほんの数行の希望に対して、多くのブログが瞬時に賛同を表明してくれた事が証している。たぶん、岡崎さんはその反応をご覧になっていたのではないか。
まだ、決まっていない事を既成の事実のように喜んでしまうのはどうかと思うが、もし実現すればとてもうれしいニュースだ。
林さんは、同時に山本善行さんの「泣き笑い古本日記」ブログ化という僕の身勝手な希望を、不可能に近い事とやんわりかわされている。確かに、あんな神業(ゴッドハンドぶり)を毎日ブログで展開された日には、多くの古本屋に通う古本好きの足を立たなくしてしまうような悪魔のブログになりかねない。
岡崎さんによる人間であるゆえの悲しみ(ペーソス)を古本の周囲に漂わせた日々の営みを毎日読んで人として生きる事の共感を味わいつつ、山本さんという現人神がおこす奇跡を神ならぬ身として賛嘆しながら時折垣間見るというまた違う楽しみを味わうのもまた格別かもしれない。
昨日の日記に書いた上々堂の長谷川さんの日記に関する僕の勘違いは、ブログを書くという事の責任というものを思い起こさせる出来事であった。ちょっと確認すればいいことを面倒くさがり、おぼろげな記憶で書いたために事実と違う事が事実のように伝わってしまう可能性を孕んだ文章を安直に書いてしまった。すぐに南陀楼綾繁さんがブログで訂正してくれ、また当方へトラックバックしてくれたことによりその勘違いが多くの人に広まる可能性を低いものにしてもらえたとも思う。ありがたいことです。

気がつけば、1月後半から始めたこのブログのアクセス数も1万に近づきつつある。これは、始めた当初には考えられなかった事だ。それだけ、自分の知らない多くの人の目に下手な文章が触れているんだというある意味身のすくむような怖さと、こんな文章でも賛同者が多ければものごとを動かしていく可能性があるのだという驚きを同時に感じる。
ブログの明と暗を感じた1日であった。