これ以上ない休日。

目覚めると11時。こんな時間まで寝たのは久し振り。
せっかくの日曜日をもう半分消費してしまったのかと愕然とするが、睡眠充分の心地よさの方が勝る。
洗濯と風呂。
先日、風呂で桂吉朝「地獄八景亡者戯」を聴こうとして74分という長さから中断していた後半を鑑賞するため、入浴前に前回聴いたところまで流しておき、適当なところで一時停止にしておいたのだが、いざ入ろうとプレイボタンを押すとまたマクラから話し始めるではないか。どうして、こうなるのだ。このCDは細かいトラックに分かれていないため、先送り機能のない我がポータブルプレーヤーでは、また最初から流すしかない。結局、今日も前回と同じあたりでギブアップ。まるで、カフカの小説のごとく、いつまでもサゲにたどり着けず、同じところをぐるぐると回り続けるしかないのだろうか。
入浴後、クリーニング屋とコンビニへ行き、部屋ごもりの準備が整ったところで、おもむろに読書モードに入る。
まずは、岡崎武志「気まぐれ古書店紀行」の読み残していた部分を一挙に読む。最近数年のものは雑誌連載で読んであるのだが、こうして一つに集まるとまた別種の趣がある。先日のジュンク堂トークセッションで、坪内さんが賞賛していた埼玉県児玉町にある吉田健一がただぶらりと泊まりにいったという田島屋旅館を訪ねる回(2005年3月)やこれも坪内さんが驚いたという小山清「犬の生活」を735円で買った郡山・勉強堂書店篇(2004年11月)などを楽しく読む。『彷書月刊』の連載(2005年2月)を見て行った平塚の萬葉堂書店のことを懐かしく思い出す。この岡崎さんの文章を読んで来たというお客さんが増えたと店主の方が言っていたっけ。
読み終わって、ふうっと満足のため息をつき、次の本に手を出す。
向井透史「早稲田古本屋日録」だ。
向井さんの文章が早く本になればいいと昨年の日記に書いたのだが、今それが現実のものとなった喜びを噛みしめながら、ページをめくる。
最初の「大雪の夜」から、その文章世界にじんわりと浸りこむ。外は冬が名残を惜しむように冷たい雨を降らせている。その音を聞きながら、こんな春を待ちわびるような日にとても似合う本だと思った。
前半の“日々の帳場から”には、雑誌『サンパン』で読んだ文章も収録されているが、まだ送ってもらう前の目録に載った文章はほとんど未見のものばかりだ。
よくジャズの演奏に対して使われる言葉に“リリカル”というものがある(典型的な例としてはビル・エバンスのピアノ演奏の例えなど)。この言葉の正確な意味を僕は知らないのだが、たぶんこの言葉はここにある向井さんの文章に対して使われるにふさわしいものだと思う。
後半には昨年の早稲田青空古本祭に向う日録が収録されている。あの日、穴八幡の境内であった向井さんの後ろにこういう日々の積み重ねがあったことをしみじみと感ずる。
「ひまわり」という文章の中に、古本屋になるという夢を断念した青年が、向井さんに頼んで帳場に座らせてもらうというシーンが出てくる。この本を読むという行為は、向井さんが座って眺めた古本屋としての日々、その瞬間瞬間を青年同様帳場に座らせてもらって追体験するような喜びを与えてくれる。そしてまた向井さんは前半の最後に置かれた「そこにあるだけの日」の中で、他の古本屋の帳場をガラス戸越しに眺めながら、そこに《永遠と表現できそうな時間》を感じている。この帳場の中と外から古本屋という仕事(存在)を静かだけれどあたたかく見つめる眼を持っていることによって向井さんの文章は、とても心地よく安心感のあるものとして多くの本と古本屋を愛する人たちから受け入れるのではないだろうか。
この他にも向井さんには、『WiLL』連載の「早稲田古本劇場」に代表されるようなユーモラスな文章という武器がある。こちらの系統も早く本というカタチで読みたいものだ。

気まぐれ古書店紀行   早稲田古本屋日録

この2冊を読む休日。古本(屋)好きにこれ以上の休日は望めまい。

今日のピアノトリオ。

ジ・アート・テイタム・トリオ

ジ・アート・テイタム・トリオ

アス・スリー

アス・スリー

  • アーティスト: ホレス・パーラン,ジョージ・タッカー,アル・ヘアウッド
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 1993/07/21
  • メディア: CD
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前者は寺島本によって《好きでなかったら聴かなくてもいい》とされているアルバム。寺島氏が嫌う《目まぐるしい右手の装飾音》が、メロディアスな展開を阻んでいるようにも感じられる。
後者は寺島氏によって《これは最高!今回五〇〇枚の中で一、二を争う大名奏》されている。冒頭の「US THREE」の弾むような演奏は確かに春を誘ってきてくれそうな小気味よさがある。