夕らちね。


 今日は仕事が休み。


 先週の月曜日から昨日までせわしい日々をおくっていたので少しほっとする。


 午前中は掃除と洗濯。昼過ぎに部屋を出る。まず、クリーニング店に昨日まで使っていた礼服を出してから、駅ビルに入っているデパートメントストアにいく。職場には家族葬と届けを出したのだが、わざわざ僕の席まで香典を届けてくれた同僚たちへの返礼品を買うためだ。その前にメガネ屋に寄ってサングラスを購入する。先日、葬儀のために実家に戻る前に入ったそば屋でサングラスを床に落としてしまい、何年も前にオーストラリアで手に入れた愛用品は見事に壊れてしまっていた。照り返しの強い場所での野外仕事をこなさなければならない者にとって目を保護する眼鏡は必需品なのだ。1階の名店街で返礼品の当たりをつけておいた上で、本屋と大戸屋にまず寄っておく。大荷物を抱えて本を見たり、食事をしたりしたくない。


 本屋では2冊。



 好きな英国及びアイルランド文学の柴田元幸訳・選による短篇集。本のたたずまいもいいし、本文が精興社なのも好み。


 料理家・土井善晴ファンで毎週土曜の朝放送の「おかずのクッキング」を欠かさず見ている(録画もしている)ので、そのレシピ集であるこの雑誌も毎号買っている。


 買った本と雑誌を持って昼食をとりに大戸屋へ。注文の品がくるまで『おかずのクッキング』を眺めていると土井先生の“冬瓜”を使ったレシピが載っていた。冬瓜と似ている野菜にカンピョウの原料となる“夕顔”があり、母親の作る料理の中で“夕顔と鶏肉の煮物”が一番好きだったことを思い出し、もうあのほろ苦い夕顔と砂糖の入った甘めの汁の染みた鶏肉で飯をかっ込むことはないのだと思ったらがっかりしてしまった。そう、母親はもういないのだ。



 7月18日の土曜日に職場で携帯に着信があった。弟からだった。弟からの電話はいつも緊急の用件であり、こちらを不安にさせる連絡である。前回は昨年の暮れに散歩中の母親が車と接触して骨折し、入院したという知らせだった。実年齢より骨年齢が10歳若いと自慢していた母親は予定より早く退院し、今年の正月は無事実家で迎えていた。しかし、今回はそう簡単にはいかないようだった。弟によれば、咳が止まらず、夜も眠れない日が続いた母親が近所の病院でレントゲンを撮ってみると胸に水が溜まっており、大きな病院で精密検査を受けた方がよいと言われ、市立病院に行って検査入院をしたところ肺に影があると言われたという。まだ、悪性がそうでないかは分からないから正確な診断結果が出る27日まで自宅で待機するようにという指示だったという。「肺癌の可能性があるから、一応そのことは頭に入れておいて」という弟の言葉に「ああ、わかった」と答えたがその声はひどくかすれていた。ちょうど僕自身も夏風邪を引いて咳が止まらず声が出なくなっていたところであった。


 翌週の火曜日に母親の携帯に連絡を入れた。もちろん、もっと早くに電話するつもりだったのだが、声がまともに出るようになったのがこの日だった。聞き取りにくいかすれ声で電話をして弱っている母親にいらない心配をかけたくなかった。母親の第一声は「もう死にそうだよ」だった。事態は自分が思っているより悪い方向に進んでいることがその声を聞いただけでもわかった。とりあえず、ものが食べられないという母親にゼリー状の栄養補助食品でいいから口に入れるようにとアドバイスして、「まだ悪性かどうかもわからないんだからマイナスに考えてもしょうがないし、あと10年は生きるってこの前入院したときに言ってたじゃないの」と励ますのが精一杯だった。実家の弟はもっと切実に母親と向かい合っていた。ものが口に入らない母親に栄養ドリンクを飲ませ、しびれを切らして市立病院に母親を連れて行った。それが木曜日だった。母親の様子をみた医師は即日入院を決定した。そして弟に母親が末期の肺癌であり、癌はすでに肝臓にも転移していると告げた。「あと何ヶ月持つんですか」と問う弟に医師は「早くて2、3日。長くて1ヶ月」と答えた。


 それを聞いて翌日の金曜日に病院に見舞いにいった。点滴をした母親は予想していたよりも元気だった。僕と弟の前で夕食をデザートまですべて食べた。その姿を見てまだ一ヶ月くらいは時間が残されているだろうと思った。一日おいて日曜日に行った時も様子に変りはなかった。ただ、弟からの情報ではあれ以来病院食はほとんど口にしていないということだった。点滴で栄養補給はできてはいるが、やはり事態は楽観できなかった。弟の意向もあり母親には末期癌であることは伝えていなかった。そのため、片道2時間かかる僕の見舞いも毎日ではなく、隔日で行くことにしていた。だから次に行くのは火曜日だった。


 月曜日、沈みがちになる気分を転換するために仕事帰りに二子玉川の“KOHORO”で行われているガラス工芸家・左藤玲朗展を見に行った。もちろん、見に行くだけではなく、左藤さんのコップ等のガラス製品を購入するのが目的である。すでに通販で左藤さんのコップを3つほど購入して使っているのだが、手作りのガラスコップの風合いが良くて、他のコップはほとんど使わなくなってしまった。“KOHORO”店内に入るとこぢんまりとした店内にずらっと左藤さんのガラス製品が並んでいる光景は心弾むものであった。同じ種類のコップでもひとつとして同じカタチがないから、どれを選ぶか何度も手に取ってはためつすがめつした。ガラスといっても無色透明ではなく、青、緑、飴色とそれぞれに微妙な色合いの変化があってこれも楽しい。さんざん迷った末にまだ持っていないタイプのコップ数個と器と左藤玲朗さんのことを書いた木村衣有子さんの本を買って帰る。


はじまりのコップ――左藤吹きガラス工房奮闘記

はじまりのコップ――左藤吹きガラス工房奮闘記



 うちに帰って買ってきたコップに麦茶を入れて飲んだりしながら過ごしていると夜10時頃に携帯に着信。弟だ。病院から「酸素吸入の値がMAXになっている状態でいつ容態が急変するかもしれないから待機しておいてほしい。危険な状況になればまた連絡する」と電話があったという。まだ、電車があることを確認して実家に向かう。夜12時過ぎに実家に着き、弟と朝まで電話を待つがいちども鳴ることはなかった。病院に連絡を入れると現在は小康状態を保っているとのこと。個室であるので部屋に泊まり込んでもいいと言われたので一度病院で母親を見舞った後、部屋に戻って昨晩飲みかけで置いておいた左藤ガラスのコップを洗って片付け、泊まり込みの支度をして夕方病院に戻った。


 この火曜日の時点では酸素マスクはしているものの母親はしっかりとしており、見舞客(昨日の電話を受けて弟がお別れをしておいてもらいたい親戚や友人に電話をしていた)とも普通に会話を交わしていた。時折、咳き込んで苦しそうになることがあったが、大好きなジャイアンツがベイスターズ相手に11対0で大勝している試合をTVで見ている時はまったく咳ひとつしないその現金さにちょっと飽きれたりもしていた。ただ、午前中にこんなことがあった。突然母親が「言い残しておくことがあるから紙とペンを用意しろ」と言ったのだ。まだ、我々兄弟は病気の真相については話していないのだが、母親は自分がもう長くないということを周囲の状況や自分の体の具合から充分に理解しているのだった。それで気が済むならと渡すと「言うからお前が書け」という。弟とともにどんなことが母の口から出てくるのかと思っていると最初に口から出たのは「××さんに○千円借りているから返しておけ」というものだった。一瞬、出生の秘密や隠し財産でもあるのかと思ったりしたのでちょっと腰砕けになる(弟は「○千万円」の借金と聞き違えて一瞬ドキッとしたと後で言っていた)。その他は、納骨に誰を呼ぶか、母の部屋にある物の処置についてなどだった。余命について何も言っていなくても母親と我々子供たちの間で彼女の死が共有された瞬間だった。



 ナイターが終わると母親は「TVを消して」と言って目を閉じた。スイッチを切り、母親のベッドの隣に設えられた細長い簡易ベッドの上に寝転んでドア前についている常夜灯の光で本を読んだ。講談社エッセイ賞受賞という言葉に反応して買った長島有里枝「背中の記憶」(講談社文庫)を読み始めて、この本が彼女とその家族や親族の関係を描いた本であることに気づいた。母が横たわる病室で読むのにこれほどふさわし本もないし、またあまりに近すぎてこれほど息苦しくなる本もないなと思いながらも作者の文章の力に引きずられるように章を重ねた。



背中の記憶 (講談社文庫)

背中の記憶 (講談社文庫)



 朝を迎え水曜日になった。昨日と比べ明らかに母親は衰弱していた。もう口元に耳を近づけないと何を言っているのか聞き取れなくなった。胸を押さえ、「苦しい」ことをアピールすることが増えた。「苦しみ」を和らげるために点滴にモルヒネが加わった。母はもう「苦しさ」を訴えることがなくなったが、それ以外の感情を表現することもほとんどなくなってしまった。そのタイミングで来た見舞客には手でリアクションをするのが精一杯であった。もう言葉はなかった。夜、隣にいる僕の方に何度か手を伸ばしてくることがあった。手を握ると握り返してくる。しかし、母親の目に映っているのが僕なのか他の誰かなのかはわからない。もう、本も読む気になれないので眠っているように見える母の姿を視野に入れながらiPodで音楽を聴いた。母親の死を意識するようになってから何故か繰り返し聴くようになった曲がある。松本隆作詞活動四十五周年を記念したアルバム「風街であひませう」に収録されているクラムボンが歌う「星間飛行」(作詞・松本隆/作曲・菅野よう子)だ。このアルバムで初めて聴いた曲で原曲はアニメ「マクロスF」の挿入歌であることは後から知った。原曲や中川翔子によるカバーも聴いたがこのクラムボンのバージョンが一番しっくりくる。最期の時を迎えようとしている母親を前にしていい歳をした男が聴く曲かと言われれば言い訳のしようもないが沈む気持ちがこの曲に救われるのもまた言い訳のしようのない事実なのだから仕方ない。「けし粒の生命(いのち)でも 私たち瞬いてる」というフレーズがちょっと染みる。






 自分だけ聴いているのも悪い気がして、スマホを使って小さい音量で2曲ほど流してみる。ビリー・ホリディ「I'm A Fool To Want You」とアン・サリー「蘇州夜曲」。




 いつの間にかウトウト眠ってしまい、ハッと目が覚めたのは夜中の3時だった。顔を上げるとこちらを見ている母親の目とこちらの目が合った。「どうした」と顔を近づけてみると母が瞬きをしていないことに気づいた。呼吸はしているがすでに意識は混濁していた。しばらくすると心拍数と酸素吸入の数値のモニターが赤く点滅して警告音が鳴り出した。ナースコールで看護師を呼ぶ。家族を呼んだ方がよいかの確認をした上で弟に電話。30分もせずに弟が病室に来る。それから3時間ほどで母は息をひきとった。木曜の朝であった。思えば先週の木曜に入院してわずか1週間だった。



 それからは、ただバタバタと過ぎていった。通夜が日曜、告別式が月曜と決まり、両日仕事の入っていた僕はその仕事を代行してくれる人をさがし、引き継ぎをし、これまで休んでいた分の仕事のフォローをして土曜の夜に実家に帰ってきた。母親が横たわっている部屋で過ごした。TVに飽きると持ってきた山田稔「天野さんの傘」(編集工房ノア)を読んだ。遺体を安置しているため部屋の冷房はガンガンに効いており、寝る時は冬のように毛布に布団を重ねて寝た。





 翌、日曜の通夜、そして月曜の告別式を終えて自宅に戻った。



 そして今日の火曜日、大戸屋で昼飯を食いながらもう一度夕顔の煮物が食べたいと思っている。そうか、食べたかったら自分で作ればいいんだと気づく。味は自分の舌が覚えているんだから自分で再現すればいい。まずは、この近くで夕顔を売っている場所を見つけることだな。