自伝から長編へ。


今日は休日出張。


どうも風邪をひいたようで喉が痛く、咳が出る。出張場所近くのコンビニでビタミンがたくさん入っているらしい飲料と梅のど飴を買う。


体調の問題もあり、野外の仕事は昼過ぎにあがらせてもらう。その代わり職場へ行き、このところの出張で滞っていた書類等の整理をする。


本屋を覗いてから帰宅。


帰宅後、部屋で一箱古本市用に作っておいたスリップ値札に書名と値段を書き、それを鋏で一枚ずつ切り離していく。こういう作業は風邪ひきでダルい頭と体でも全然苦にならない。
週間予報では22日の東京の天気は曇りで降水確率40%。さてこれからどう変わりますか。期待しましょう。


昨日のメールの返信が2人から来る。一方はダメで、もう一方は来てくれるとのこと。遊びに来てくれる友人が増えれば、しばらくの間でも店番を頼んで自分が他の人の箱を覗きに行けるのだから楽しみが増えるな。


小林信彦「決壊」(講談社文芸文庫)読了。
「息をひそめて」は叔父の塗装会社から進駐軍の家族向けハウスを貸している混血の親類の会社へと転職した著者の経験を題材にした短篇。この話が「丘の一族」につながっていく。
ビートルズの優しい夜」はもう若くないことを自覚している主人公が現在の職業を《自分に向いていない場所》と認識し、そこに居心地の悪さを感じながらも思い切って離れることができずに漂っている姿を描く。その感じがこの年になって以前よりよく分かる気がする。
「パーティー」はある映画会社のパーティーに集まるさまざまな人の生態を描いた作品。長編第1作「虚栄の市」からパーティー場面を描き、その描写のうまさを評価されている小林氏の真骨頂とも言えるパーティー小説だ。「ビートルズの優しい夜」の主人公同様、この作品の主人公も居心地の悪さを感じている。こいう対人的な感情を描くのは小林氏の得意とするところだろう。


講談社文芸文庫に入った小林氏の「袋小路の休日」、「丘の一族」、「決壊」の3冊はともに“自伝的小説”と呼ばれうるもので、氏は嫌がるだろうが、広義の“私小説”と言えるものであろう。近年の“私小説”再評価の気運の中で、これまで小林信彦ファン以外には顧みられることの少なかったこれらの作品にもう一度光が当たることは喜ばしい。次は「虚栄の市」、「汚れた土地」、「冬の神話」という初期長編3作の講談社文芸文庫による復刊にぜひ取り組んでもらいたいものだ。


「決壊」と言えば、昨日書いたことを南陀楼綾繁さんが「ナンダロウアヤシゲな日々」(id:kawasusu)で取り上げてくれている。
なるほど、“出雲=山陰の暗さ=容子の暗さ”ですか(勝手に単純化してすみません)。
僕が“出雲=出雲大社=縁結びの神様”と読んだのは、小林氏の教養の一部を形成したと思われる落語において、「出雲」とくれば神様が集まって縁結びをする場所としてまず認識されているのでそう考えてみました。よくマクラに使われる神様たちが男と女を2人一組で糸で結びつけ、余った3人を結んだので三角関係ができたというアレですね。それから、問題の《容子の父が出雲地方の出身であることも、修には自分たちの将来にとって暗示的なものに感じられた》という一文の前には《容子は幸福な家庭に育った》、《容子の父と慎ましやかなその母が営んでいる日常は、修には夢の世界であった》、《一家にとっては何の変哲もない生活の一齣が修の眼にはきわめて新鮮なものとして映じた》というように肯定的な表現が続いていることからも、容子の暗さへの暗示ではなく、結婚して自分の家とは違う家庭を築けるのではないかという暗示に解釈したわけです。
あと、僕個人の感覚で言えば《出雲》という場所のイメージから暗さを感じることがまったくなく、また旅した山陰地方にも暗い印象がないのでピンとこないのかも知れません。
いづれにしても、この一文に出てくる《出雲》は唐突で、説明不足ではありますよね。


小林氏といえば「うらなり」で菊池寛賞を受賞したことを退屈男さんより教えていただいた。
賞とは縁のなかった氏の受賞だ。その胸中はどのようなものだろう。



今日の4000番台。

ジミー・スミス・プレイズ・ファッツ・ウォーラー(紙ジャケット仕様)

ジミー・スミス・プレイズ・ファッツ・ウォーラー(紙ジャケット仕様)


BNを代表するミュージシャンであるジミー・スミスが切りのいい4100番。このレーベルには珍しいジミー・スミスによるファッツ・ウォーラー集という企画もの。個人的にはギターもサックスもないオルガントリオというのはちょっとさびしい。まあ、“さびしい”なんてスミスには一番似合わない言葉だけど。

読了1。
【購入できる新刊数=3】