編集者としての作家。


 目覚めるとやはり喉が痛く、体がダルい。やっぱり風邪のようだ。


 今日は一日家に籠って年賀状書きと読書にいそしむことに決め、黒岩比佐子「編集者国木田独歩の時代」の続きを読み始めて読了。


 自分が国木田独歩に関していかに無知であったかを思い知らされた1冊。逆に言うと、知らなかったことばかりが目白押しに出てくるため最後まで興味深く読み通すことができた。黒岩さんのHPで読んだ石原千秋氏の評言にもあったように明治時代多くの作家が同時に編集者でもあったわけだから、この編集者として作家を見直すというのは近代文学研究の視野を広げる有効な視点となると思われる。この視点により、明治の作家に限らず、和田芳恵永井龍男吉行淳之介小林信彦村松友視といった幅広い対象を視野に入れることができる。
 もちろん、出版社に籍を置いていたとしてもほとんど編集者として実績を残していない作家もたくさんいるだろうが、独歩の場合は優れた編集者としての才能を持っていたことによって一時代を築く成功を収めた。しかし、それはあくまで編集者としての才能であって経営者としての能力ではなかったため、独立しておこした独歩社を多額の負債によって潰してしまう。そのことで編集者独歩は成功も込みで小説家独歩のマイナス要因として評論家や研究者から切り捨てられ、世間から忘れられていく。
 この切り捨てられた編集者独歩の復権を黒岩さんは見事に果たしていると感じた。この本によって国木田独歩研究はこれまで以上に幅の広いものになっていくだろうと思う。
 また、第六章で展開される、独歩家に住み、近事画報社で写真師として働いていた謎の女性を黒岩さんが突き止めていく話は、この本の読みどころのひとつだろう。そこには独歩に関わる事実を突き止めたいというノンフィクションの書き手としての当然の気持ちとともに、同性として男ばかりの現場で男でも扱いに困るような重い機材を持ちながら自分のやりたいことにチャレンジした若い女性に対する強いシンパシーが込められているように感じた。だからこそ、女性写真師の登用というその時代では考えられないような独歩の先見性をうかがわせるひとつのエピソードが本書の山場のひとつとして読者に迫ってくるのだとも思う。


 その後、ようやく年賀状書きに着手し、夜までかかって仕上げる。これで肩の荷が下りたので、また読書に戻る。


 読みかけで放っておいた内田樹村上春樹にご用心」(アルテス)を読み継ぎ、読了。村上春樹関連で紙媒体に発表したものやブログに書いたものをまとめたものなので、決して1冊のまとまった村上春樹作家論にはなっていないのだが、内田氏の村上氏に対する熱い思いとすでに世界的に認められている村上作品に対する日本の評論家たちの無理解への憤りが伝わってくる本だな。
 村上春樹氏は「羊をめぐる冒険」以来ずうっとリアルタイムでその作品を読んできた数少ない作家のひとりだ。それだけに思い入れも強く、最近の長編に対しては前ほどのめり込めない微妙な思いもあるのだが、氏の作品が現在の日本文学にとって無視することのできない存在であることを疑ったことはない。それゆえ、内田氏の思いに僕もかなり同調して読むことができた。


 今、手元には未読の村上エッセイ2冊と村上春樹論を含む坪内エッセイが1冊ある。この正月休みはこれらの本をめぐって展開されることになりそう。