村上春樹、半ばでございます。

9時半に目覚める。
そのまま寝床の中で「大東京ビンボー生活マニュアル」を最終の5巻まで読む。最終話で唐突に旅に出て(人の依頼によるものだから“出される”と言った方がいいか)あっけなく終了。確かに4巻あたりから以前に出てきたサブキャラクターの再登場が多くなり、自己模倣的な展開が目につくようになっていたので幕引きにはいい頃合いかもしれない。
その後、作中に登場した本をメモしておく。「トーマス・マン全集」、ヘミングウェイ海流のなかの島々」、プラトンパイドロス」、「梶井基次郎全集 第1巻」、「斎藤茂吉歌集」、足立倫行「人、旅に暮らす」など。第121話でコースケが観に行くオールナイト“幻の名作大会”は、川島雄三「幕末太陽伝」、成瀬巳喜男「めし」、山中貞雄「人情紙風船」、島津保次郎「隣の八重ちゃん」といった作品が並ぶ。先程の書名とこの映画作品名を見れば、作者の趣味とともにどのような読者を意識して書いているのかがわかる気がする。
いつも通り、洗濯と風呂と落語。先日、京須偕充「落語名人会 夢の勢揃い」を読んだ影響から、三遊亭円生居残り佐平次」を聴く。志ん朝版佐平次が如才ない芸達者であるのに対して、円生版佐平次はただの厚かましい奴という感じ。先に帰す遊び仲間とのやりとりが妙に細かく描かれているのが円生流であろうか。居残った佐平次が店で幅を利かせようというところで「居残り佐平次、半ばでございます」と終わってしまったので、ちょっと拍子抜けする。
昼から出かける。外へ出るといい陽気に暖かい。これなら鎌倉あたりに古本散歩にでも行けばよかったと思うが、まだ風邪が抜けきっていないので近場で我慢する。隣り駅のブックオフへ。目的は「大東京ビンボー生活マニュアル」に出てきた阿部昭作品が読みたくなり、文庫本を探しにきたのだ。前回来た時に比べ、105円棚が随分と入れ替わっている。軽く済ますつもりがつい気を入れてみてしまう。

最後の雑誌を除いてすべて105円とはいえ、またこんなに買ってしまう。いったい自分はどうしようというのだろうと思うが、これだけ買っても1500円の廉価版CD1枚と同じ値段なのだからつい手も伸びてしまうよ。
講談社文庫のアーウィン・ショーがズラット並んでいたので、思わずセット買い。表紙の和田誠装画がいいですね。
関川本は15年ほど前に出た紀行エッセイのカラー文庫。こういうものってまず復刊されないだろうと思い買っておく。「作家のかくし味」は初めて見た本。文学作品に登場してくる食べ物を取り上げ、写真とレシピを載せている。
「突飛な芸人伝」は前から気になっていた本。昨日亡くなったショパン猪狩に一章が割かれている。
「悪意銀行」は“都筑道夫コレクション”の《ユーモア篇》。都筑氏の創作落語や落語との関わりを綴ったエッセイ「私の落語今昔譚」などを収録。
パルタイ」は15刷ながら最初の単行本。黒いカバーに朱色の文字でパルタイ倉橋由美子、PARTEIと3列横並びに書かれた装幀が気に入った。小口などを黒く塗っているのもいい。
「早稲田の阿呆たち」は、前からここの棚に並んでいたのだが、「ナンダロウアヤシゲな日々」で南陀楼綾繁さんが買っていたのを読んで手に取ってみる。作者の早稲田大時代を題材にした自伝的小説で、実名で作家が出てくるのに興味を覚え、かごに入れる。パラパラと中を眺めると、やたらと《丹羽文雄》と《乳房》という言葉が目につく。さすが富島健夫作品だとへんな納得をする。
「こんな映画が、」は、前に「yomunelの日記」(id:yomunel)で取り上げられていたので気になっていた本。映画の雰囲気からかけ離れたような愛らしいカラーイラストが逆に面白い。
現代詩手帖』は特集が“エッセイの快楽−〈わたし〉の場所”。座談会が中沢新一×松浦寿輝×堀江敏幸、寄稿者が荒川洋治宇野邦一小池昌代、白石公子、坪内祐三樋口覚本田和子安原顯草森紳一という面々なので手元に置いておきたくなった。
店を出て、モスバーガーで遅い昼食。今日ここの「ブ」に来たのはモスのハンバーガーを食べたくなったということも理由の1つ。地元の駅前にはモスバーガーがないのだ。タンドリーチキンバーガーを食べる。新しくなったというバンズも悪くない。
帰宅しCDを聴きながら、村上春樹意味がなければスイングはない」を読む。
まず、第1章のシダー・ウォルトンから。

僕の部屋にはシダー・ウォルトンのリーダー・アルバムはないので、文章中にも出てくるこのアルバムを聴く。表題作の「モザイク」はウォルトンの作曲だ。日本に来日したメンバーによるモード時代のファンキージャズ。
続いてスタン・ゲッツの章を。順番通りではなく、ジャズミュージシャンから拾い読みしていく。

スタン・ゲッツ・アット・ザ・シュライン

スタン・ゲッツ・アット・ザ・シュライン

このアルバムについての文章を読みながら聴いていると、まるで村上氏に解説してもらいながらいっしょに聴いているような気分になる。刑務所帰りのゲッツが、自ら復帰祝いをするように快調にサックスを吹いている。
そして、ウィントン・マルサリスの章へ。

Immortal Concerts: Jody

Immortal Concerts: Jody

彼の音楽が《なぜ(どのように)退屈なのか?》を論じようとした文章中で退屈でない方の例に挙げられているジャズメッセンジャーズ時代のウィントンを聴く。このとき彼はまだ18歳だ。ジャズの歴史も偉大なる先人たちの存在もほとんど知らず、己の技量と才能への自信を最大限に発揮してバリバリ吹きまくる姿が微笑ましい。この章での村上氏のウィントン評は、僕の漠然と感じていた思いを丁寧に文章化してくれているので読みながら気持ちが軽くなっていくようだ。
そして、ジャズからクラシックへと移る。シューベルトピアノソナタ第十七番二長調」D850の章を読む。

Uchida Plays Schubert (Coll)

Uchida Plays Schubert (Coll)

これが僕の持っている唯一のシューベルト。買っておいてよかったと思いながら読んでいると、《僕個人の好みを言わせてもらえるなら、僕は内田光子ニ長調の演奏を最終的には取らない》という文章にぶつかる。なんだ、そうなのか。この演奏は春樹ワールド的ではないのだな。この評価はあくまで個人的な好みの問題であって内田光子さんの演奏の質自体の問題ではないということを氏は注意深く説明している。他の演奏を聴いていない僕としては、氏の評価が妥当なのかどうかの判断はできない。情けないが、ピアノソナタD850というのはこういう曲なんだということがわかっただけだ。まあ、それでも自分的にはちょっとした進歩なのだが。
その後、ゼルキンルービンシュタインの章も読んだが、僕の乏しいクラシック歴では対応するCDは手元にない。ここらが潮時と本を閉じる。