ブクロとブログ

待ちに待った休日である。平日は毎朝5時起床(遅番の1日を除く)という生活をしているため慢性的な寝不足状態であり、土曜の夜に目覚しをかけずに眠りに就く瞬間はまさに至福のひと時である。

睡眠を充分にとって起床し、昼から池袋へと出掛ける。サンシャイン60で行われている古本市を見に行くのである。
休日なのだから、家で体を休めて読書でもしていればいいのだが、電車に乗ってどこかへ出掛けるというウキウキ感がたまらない。
それに、電車の中での読書が不思議と集中力を高め、快適な読書空間を提供してくれる。窓からの暖かい陽光を浴びながらのうたた寝もまた格別だ。

電車の中のお供は坪内祐三「私の体を通り過ぎていった雑誌たち」(新潮社)である。小・中学校時代の坪内さんがいかに濃い雑誌生活を送っていたかを知り、自分との違いに驚く。坪内さんは自分でも沢山の雑誌を購入しているが、それ以外にも家に多くの雑誌が両親や祖母の手で置かれているという環境がうらやましい。僕が雑誌を買い始めるまで、我が家には雑誌というものがまずなかった。家にあったのは新聞と親の買った3冊の本(和裁の本と料理の本と読まれることのなかったであろう「頭のよい子に育てる本」)だけだったのだから。
それにしても、中学時代にベースボール・マガジン社発行の雑誌を全部購読しようと考えて「陸上競技マガジン」まで買ってしまう中学生の坪内さんは只者ではない。恐るべし。

 一九七二―「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」  文庫本福袋!

池袋に着く。サンシャイン目指して人波を掻き分け、何とか会場へ。本日最終日の赤札があちこちに貼られている。日曜にしか時間の取れない身としては、初日に並んで開店を待つなどということはできない。すでに多くの人たちの目と手によって隅々まで点検し尽くされた棚に掘り出し物など残ってはいないだろうが、興味がある本を適正価格(自分にとっての)で買えればそれでいいのだ。
結局1時間以上かけて場内を回って買ったのが1冊。

草森さんの本は装丁など凝ったものが多く、内容も興味深い。そのため、コツコツと古本屋回りで集めている人のひとり。この本は題名は知っていたが実物を見たのは初めて。あとがきの「魚座の弁明」(僕も魚座だ)によると、《この雑文集は、一九六三年から一九七二年までに書いた五枚以下の文章を収録したもの》とある。一九七二年と言えば坪内さんの本の題名ともなり、「私の体を通り抜けていった雑誌たち」でも繰り返し言及される戦後日本の転回点となった年である。その転回点がどのような流れでそこに到ったのかについて知るひとつの資料となりそうだ。

とりさんのブログや「ナンダロウアヤシゲな日々」で名前を知った池袋の古書往来座に向かう。講談社文芸文庫などが充実しているということなので是非一度行ってみたいと思っていたのだ。携帯していた野村宏平「ミステリーファンのための古書店ガイド」(光文社文庫)で場所を確認していたため迷わずに着く(まあ、駅から一本道なので迷う方が難しいのだが)。ひとことで言って自分好みの本屋である。講談社文芸文庫は新刊と思うほどの程度の良さと同一の本が数冊ずつ並んでいるのが圧巻。もちろんすべての書名が揃っているわけではないが、この規模でこれだけの品揃えは立派だと思う。そして、それを上回るくらいのちくま学芸文庫の品揃え。背表紙の白が、まるで洗剤のCMのように目に飛び込んでくる。文芸文庫中心に4点を購入。

私の人生頑固作法―高橋義孝エッセイ選 (講談社文芸文庫) セバスチャン・ナイトの真実の生涯 (講談社文芸文庫) 一銭五厘たちの横丁 (岩波現代文庫)

「池袋モンパルナスそぞろ歩き」は宇佐美承「池袋モンパルナス」(集英社文庫)を読んだ興味から。レジの男性がこの冊子はジュンク堂やリブロでも売っているがこの店の方が100円安いと教えてくれる。それは僥倖。とりさんが書いていた女性の店員さんは不在なので残念。

古書往来座の近くにあったらーめん屋弁慶で遅めの昼食。弁慶ラーメン+半チャーハンのサービスセット。空いているというだけの理由でこの店を選ぶ。最近の高級志向ラーメンブームには付いていけないものを感じており、並ぶことなくラーメンが食べられるというごく普通のことが普通にできてうれしい。この店も昔風のラーメン屋と最近のラーメン屋のハザマで苦戦しているのではないだろうかと要らぬ心配をする。自分以外の客がみんな弁慶ラーメンを頼まないのも不安になる。屋号を付けている売りのラーメンに人気がないと言うのは問題ではないのかとまた心配する。

ジュンク堂池袋店に立ち寄る。池袋にくることがほとんどないので、この店によるのは初めて。昨年、田口久美子「書店風雲録」(本の雑誌社)を楽しく読み、田口さんの勤めるこの店に一度来てみたかったのだ。レジが1階にしかないという方式を知らず、3階で選んだ本を持ってエスカレーターに乗っていいのか戸惑う。ここでも4点。

山田本は「新・読前読後」のブログで先日知ったもの。本当は同じ作者の「特別な一日」(平凡社ライブラリー)を買うつもりであったが見当たらず、代わりにこれを。実は数年前職場の会報にスコットランドへの旅についての短文を書き、その題名を「旅の中の旅」と付けた。その時はもちろんこの本の存在は知らなかった。目次を見ると偶然にもスコットランドへの旅の章が。こういった偶然を楽しむのも本の世界が広がっていくひとつの鍵のように思える。
エルマガジン京阪神対象の情報誌。山本善行さんの連載「天声善語」が読みたくて買う。この雑誌は関東の書店でまずお目にかかれないものなので、ジュンク堂の棚で見つけたときはうれしかった。さすがは関西出身の書店である。僕の知る限りでは、この雑誌を置いている他の店は西荻にある信愛書店くらいである。本好きには周知のことだと思うがこの小さな街の新刊書店はすごい。坪内さんの「文庫本福袋」で知った滝田ゆう滝田ゆう名作劇場」(講談社漫画文庫)が新刊で平然と置いてあった。版元品切れで神保町の大型書店でも置いていなかったのに。
日本古書通信』の特集「わが古書目録を語る」には、石神井書林の内堀さんや古書現世の向井さんの文章が載っている。ともに口調は違えど静かに決意を語っているのが清清しい。
彷書月刊』は特集が「マキノ撮影所」なのだが、それよりも南陀楼綾繁さんの「ぼくの書サイ徘徊録」に目が行く。前号から引き続き“書物blogは読書を変えるか”というテーマ。ブログをやっている者の末席に連なる身としては素通りできない。
南陀楼さんは、ブログが《情報を発信しつつ同時に情報を収集するという「離れわざ」》を可能にしたことや《本読みの通が持つ知識の「おすそわけ」に預かることができる》という利点を挙げながらも、人の情報をそのまま流すだけの《半可通》が多く、《文章を読ませる芸のないブログが多すぎる》という欠点を指摘している。その他に《自分が書いたコトに対して責任を取る、というアタリマエの姿勢が必要となる》とも。
その通りだと思う。ブログという公開の場で文章を発表する以上、読む人のことを考えないということはありえないし、また書いたことへの自覚と責任を持たなければならないのは当然だ。とりあえず、僕にできるのは、なるべく自分が直接経験したことを書く、文章の対象となる人が読む可能性があることを絶えず意識して書くというようなことに過ぎないのだが。
《テーマから、文体、表現、デザインまで含めて自分独自のスタイル》を持つべきだという指摘には、そうであるべきだと思いつつも己を振り返って赤面する。
気軽に始めたブログであるが、始めたからには自分なりに納得できるものにしていきたい。
さて、どうしたものか。
それは、今後の宿題とします。

本日はやたらと長くなったので、昨日に続き今日の音楽はお休みです。