サヨナラのサーだ。

 4時起き、バス始発前の駅への坂道を歩く。

 出張野外仕事がある日のルーティンの光景。寒暖の目まぐるしく入れ替わるこの時期の定番のウエアであるロングのダウンコートでは少し汗ばむくらいに暖かい朝だ。日中は18度くらいにまで気温が上がるらしい。

 最後の出張野外仕事が寒々とした日でなくてよかったと思う。就職してから今日まで30年近く続けてきたこの野外仕事の担当が今日で終わる。4月からは配置転換によって新しい屋内仕事の担当者になることが決まっている。ただ、ごく当たり前に最後まで仕事をしたいので今日まで担当を外されることは関係者には話していない。今日の仕事終わりに事実を伝え、区切りをつけようと思っていた。


 まだ、人影もまばらな野外仕事場所に着く。ここが謂わばホームグラウンドに当たる場所だ。毎年何度もこの場所に通ってきた。その間に周囲の状況もずいぶん変わった。仕事の合間に昼食を食べに行っていた近くの高校の前にあった喫茶店が姿を消した。ここで食べるオムライスが好きだった。その後に行っていた道路沿いの2階にある中華料理屋もやめてしまった。ここで食べる中華丼が好きだった。野外仕事場施設内にある食堂は家族経営の落ち着いた店で人気があり、いつも空席を探すのが難しいため外に食べに行っていたのだが、席があるときに食べるカツカレーが好きだった。この店も昨年暮れに施設の契約を解除され自動販売機だけが置かれる無機質なコーナーに変わってしまった。春になって今度は僕が消えることになった。


 長い間続けてきた仕事だが、一度も自分に向いていると思ったことはない。いつも仕事だからやっているのだと自分に言い訳をしながら続けてきた。もし、担当者が自分でなかったらもっといい結果が出てきただろうと毎回のように思わざるを得なかった。この仕事にありがちなマッチョな雰囲気も好きになれなかった。そんなこんなに嫌気がさすと施設内の隠れ家的休憩室に逃げ込んで、空き時間に本を読んだ。ここで読んだ本として記憶に残っているのはやはり、ロバート・B・パーカーの“スペンサー”シリーズということになる。就職してこの仕事の担当者となり、少し慣れてきた30代の頃によく読んでいたのが、ボストンの私立探偵・スペンサーを主人公としたハードボイルド小説だった。旧刊は文庫で、新刊は単行本で買って読んでいた。シリーズ中の傑作と言われる「初秋」もここで読んだ。木々の多いこの場所で季節は秋だったのではないか。マッチョな雰囲気が嫌だったのにマッチョなスペンサーが主人公の小説を好んで読んでいたのが不思議だが、概ねハードボイルド小説の主人公の探偵(一人称)は、フィリップ・マーロウを筆頭に基本的に詩人なのでその詩人の部分を求めていたのかもしれない。このシリーズの大半をこの仕事場で読んだためか、今でもこの場所を歩いているとスペンサーが自分の名前の綴りを紹介するときの決め台詞「SのSIRだ」が頭に浮かぶことがある。


初秋 (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ)


 午後4時には仕事が終わる。仕事終わりには関係者でミーティングを行うことになっている。年度の最後なので、次年度の役割分担を発表し、本日の反省点などを確認した後、自分が担当者を外れたこと及び後任の担当者の説明を行った。反応を見るとやはり情報はどこからか漏れるものですでに予測をしていたものと全く知らなかったものが混在しているようだった。ミーティングを終えて解散の指示を出したが動き出す感じがないので不思議に思っていると代表者が小さな花束を渡してくれた。その後、以前の関係者が何人か駆けつけて来てくれる。どうやら事情を知っているスタッフが声をかけてくれたらしい。ただ、仕事がいつもより早い時間に終わったため、ミーティングの時間には間に合わなかったのだ。その後も花束や記念品を渡されたり、写真を撮られたりする。そのうちに新たに数人が駆けつけてきてくれる。「あれ、今日定年退職の日だったっけか?」と思ってしまう。明日からも普通に出勤するのが申し訳ないような気がする。


 皆と別れてひとりになって地元駅へ戻ってくる。家に花瓶がないことを思い出し、無印良品で花瓶代わりになりそうな水差しを買って帰る。水差しと高さのあるコップを使って貰ってきた花を飾る。



 野外仕事の汗と花粉を落とすために風呂に入る。湯船に浸かりながら今日の「たまむすび」を聴く。パーソナリティー赤江珠緒が産休の為今日で番組を離れる最後の日の放送だ。それが今日の自分の姿とかぶる。