本好きの通り道。

 年間で一番厳しく忙しい期間が先週で峠を越えた。風邪やインフルエンザをひたすら恐れ、びくびくおどおどと過ごす必要のなくなったことはうれしいのだが、この半月ばかりの日々を振り返っても仕事をやり遂げた充実感というようなものはほとんどない。昨年した後悔と寸分違わぬといいたいような後悔の念がただちくちくと心を刺し、己の無能さにどんよりとした疲労を感じるだけだ。


 この間はほとんど集中した読書などはできず、ぼんやりTVを見るか、寝床で山本善行「定本 古本泣き笑い日記」(みずのわ出版)や須賀章雅「貧乏暇あり 札幌古本屋日記」(論創社)をちびちびと就寝儀式として読み進めていただけだ。



定本 古本泣き笑い日記

定本 古本泣き笑い日記

貧乏暇あり―札幌古本屋日記

貧乏暇あり―札幌古本屋日記



 仕事に対する自信もないまま、日々仕事に追われていた身にとってこの二著は心のオアシスようなものであった。本の話題に慰められるというだけではなく、著者のお二人は自分を戯画化する才に秀でており、その滑稽さを帯びた自画像を冷静に見つめつつ筆を進めるもうひとりの著者の存在を嫌みや違和感なく読者に想像させることのできる優れた文筆家であると思う。




 今日、職場にアマゾンに注文していた本が届いた。楽しみにしていたこの本だ。


本読みの獣道 (大人の本棚)

本読みの獣道 (大人の本棚)


 “みすず大人の本棚”シリーズの最新刊である。地元本屋には入らず、かといって遠くの大型書店まで買いに出る時間と余裕がないためすぐに欲しかった本を買い物かごに入れて、マウスをポチっとクリックしてしまったのだ。


 この本を早く読みたいのと、夜にやらなければならないことがあったのでいつもより早めに退勤する。


 とりあえず本屋へ。

 本棚の前にこれから棚ざしする前の新刊が台車の上に平積みされているのが目に入る。そこにこれを見つける。


一私小説書きの日乗

一私小説書きの日乗


 うまい具合に近くに店員の姿が見えなかったのでそこから1冊抜いてレジへ持って行く。この本はweb文芸誌「マトグロッソ」に2011年3月から2012年5月まで掲載された公開日記を書籍化したものであるらしい。そのweb日記の存在を知らなかったので当然未読。読むのが楽しみである。帯には“ときどき怒り爆発”などと書かれているので、昨年角川文庫に入ることが予告されていた西村氏の編集による田中英光作品集がお蔵入りになった理由なども書かれているのではないかと期待が高まる。





 帰宅して、「本読みの獣道」を手に取る。この本は前半が雑誌『世界』や『ユリイカ』に掲載された本に関するエッセイを収め、後半は『みすず』に連載していた「ふるほん行脚」の単行本未収録分が“完結篇”として並んでいるという構成である。

 まずは「ふるほん行脚」から目を通す。田中眞澄さんは2008年にみちくさ市に現れ、2009年には古書往来座外市にも顔を出している。ということは、たぶん僕はその時そこにいたはずだから、それと知らず田中眞澄さんを見ていたということになる。そして2011年には僕も行っていた月島のあいおい古本市にも足を伸ばしているからこの時も遭遇していた可能性は充分ある。「そうか、本でしか知らないと思っていた田中さんを僕はすでに知っていたのかも知れない。」という思いがまたページを先に進ませるのだ。


 山本さんや須賀さんの本と同様、この田中さんの本も“本好きの通り道”とでも呼ぶべき本となるだろうと思う。




 夜の9時にPCからメールを送る。3月17日に鬼子母神近くで行われるみちくさ市に出店するための申し込みメールである。そう、5年前に田中眞澄さんが訪れたあのみちくさ市だ。


 無事、出店のブースを獲得したとの返信メールが届く。しばらく本の処分をしていないので部屋は荒れ放題である。少し身軽になるためにも今回はごっそり本を持って行くつもり。