カナブンと印鑑。

 気がつけば9月も半ば過ぎである。


 アン・サリー畠山美由紀“ふたりのルーツ・ショー”を日経ホールに聴きにいった喜びの一夜からもすでに1週間余りの時が過ぎている。アン嬢が黒澤明監督作品のファンであると語り、「生きる」で志村喬が「ゴンドラの唄」を歌うシーンを何度も観てしまうと言ってその「ゴンドラの唄」を歌い出したことと気仙沼出身の畠山嬢が3月11日の震災に関わる詩の朗読を始めた時にちょうど真下から突き上げるような地震の震動が来たことで忘れられない夜になった。


 そんな楽しい休日もあっという間に日々のドタバタの中に紛れてしまう。心を亡くしそうなあれこれをやり過ごし、土日の野外仕事へ突入したのだが、もう秋であるというのに未練たらしいダメ男のような猛烈残暑にやられ、汗みどろになって帰宅し、シャワーを浴びてやっと人間であることを思い出すようなぐあいであった。


 今日は半ドンで仕事が終わり、週末のダメージを残した心と身体でさっさと帰って寝ようと思っていたのだが、知人の店が開店前の内覧会をやるというので予定を変えて行ってみる。


 川沿いのマンションに囲まれた角地にその店はあった。店の名前はその“川沿い”を外国語にしたもの。ガラス張りの明るい店内には木のフロリーングと陳列棚があり、落ちついたいい雰囲気だ。ショーケースには焼きたてのパンが並んでいる。イギリスやフランスのパンは食べたことはあるが、この国のパンを食べるのはもしかしたら初めてかも知れない。そのお国柄とよく似た見た目は地味だが質実剛健なしっかりとした美味しさがあるパンだ。知人がそのパンにハムやチーズ、そしてレバーペーストなどを挟んで次々と出してくれる。小麦やライ麦の味わいがストレートに伝わってくる。お世辞ではなく旨いと思う。だからそう伝える。知人は白いサンダーバードの隊員のような帽子を頭にチョコンとかぶり嬉しそうだ。


 厨房に入ると外国製のオーブンや粉引き機、そして石釜などがある。その設備を見ただけでもかなりの金額がかかっているのがわかる。このご時世で商売をしていくことの大変さはサラリーマンである僕でも容易に想像がつく。なんとか成功してほしいと思う。共通の知人も来て彼が協力するホームページ用の写真を撮る。店先にパンを並べて撮影していると通りがかりの人が何人も店内に入ってくる。もう開店しているものと思ったらしい。店主は焼いたパンを無料で渡し、店のPRに努めている。新しい店が始まろうとしている準備中のこの雰囲気はなんとも言えず、いい。


 他の内覧者が次々とやってきたのでお土産のライ麦パンをもらって店を出る。


 地元駅に戻って本屋へ。

Cafe.mag 2011年 11月号 [雑誌]

Cafe.mag 2011年 11月号 [雑誌]



 先月NHKBSプレミアムで放映した英国BBCのドラマ「シャーロック」にハマり、ひさびさにホームズ関係の本を買う。「まだらの紐」と延原謙の翻訳をベストという筆者の考えに親近感を覚える。


 「流される」は『文學界』掲載時に読んでいるが、小林泰彦画伯の挿画の単行本が出ればやはり買ってしまう。文芸評論家の田中和生氏の帯文が大上段過ぎてちょっとと思う。もっとそっと静かに読めばいい作品だと思うがな。まあ、人が騒いで買ってくれないと作者は困ってしまうとも思うが。自伝三部作を書き上げた小林氏は次にどこへ向かうのだろう。


 『café.mag』という雑誌を買うのはたぶん初めて。“外カフェと家カフェを楽しむカフェライフ情報誌”というキャッチフレーズからは自分とのつながりは見いだせないが、特集が“心地よきブックカフェ”であれば問題ない。移転後、まだ行ったことのないコクテイルを写真で初めて見る。2階まで突き抜ける3メートルの書棚というやつに興味津々。


 帰宅して熱の籠る部屋に風を入れようと窓を開けると強く涼しい風が流れ込んで来て驚く。これも台風の影響か。窓を全開にしてその涼しさになごんでいたらあちらこちらにぶつかりながらカナブンが一匹入ってきた。目を奪われるような鮮やかな緑をしている。しばらく、うろついていたと思うと部屋に積み上げてある本の山をロッククライミングの要領で登っていく。ただ、ビニールコーティングされている本のところでどうしても手がたたず先に進めないようだ。まあ、慌てずに行こうよ、カナブン。


 急に吹き込んで来た強い風が天井近くまでカーテンを吹き上げる。するとさっきまでカーテンで隠れていた床にカナブンの10倍はあろうかという緑色の固まりが見えた。手に取ってみるとこの夏から探していた印鑑入れに使っているベトナム雑貨の小銭入れだった。こんなのところにあったのか。職場の事務員から何度も催促されていた書類がこれで出せる。


 印鑑は鞄にしまい、カナブンは網戸を開けて外へ逃がす。