ポケットの中の千円札。

 
 月曜日、どことなく頭も体も重い感じ。


 先日、仕事先でサイフと携帯を置き引きされた同僚に貸していた5000円が二つ折りの千円札5枚で戻ってくる。それをそのままポケットに突っ込んで退勤。


 思うようにいかないことがあり、心晴れやかでないので、憂さ晴らしに昨日食べられなかった豚カツ定食でもと思い、地元の店に行ってみるも定休日。


 本屋へ。
 仕事の本を1冊とこれを買う。

 もう絶版かと思っていたら、昨年の12月に18刷が出ていたのだ。文芸文庫なのに千円以下という値段もいい。何色というのだろう、薄い草色のカバーにも惹かれる。頭に浮かぶのはまだ足を踏み入れたことのない緑なす金沢である。


 レジではポケットから裸の千円札の束を取り出して支払う。この無造作な感じは嫌いではないのだが、ピッタリ千円単位の買物ができるわけでもなく、結局はポケットを釣り銭でジャラジャラいわせることになるのが嫌でサイフを持ち歩くことになるのだ。


 夕食は自宅近くのコンビニで買うことに。ここでもポケットの千円札で支払い。釣り銭はレジカウンターの募金箱へ。こうすれば小銭を気にせずにポケットをサイフ代わりにできる。しかし、今は7円というお釣りだから可能だったのであって、これが100円以上だったら同じことができるか自信がない。


 帰宅するとポストに「出版ダイジェスト 白水社の本棚」が届いている。
 1面下のコラム「愛書狂」を読む。檀一雄「火宅の人」限定版を筆者に見せる製本工場の相談役の両手の親指に第一関節から先がない。雑誌の裁断作業中の事故によるものだ。この話を読みながら父親の師匠にあたる日暮里のおじさんのことを思い出す。今は亡きこの人も親指の先がなかった。それは仕事上の事故ではなく、戦争にとられた時の事故が原因だったと聞いた。その小学生時代の見聞のためか、「戦争」と聞くと先の失われた親指を思い出す。


 落ち込みがちな気分を中和させるため荻原魚雷「古本暮らし」を読み継ぐ。
 「成長するってこと」を読みながら、自分を好きになれたらいいなと思う。20代の若者でもないくせに、いつになったら自分を好きなれるのかとんと見当もつかず、茫然とする。ただ、魚雷さんの言うように、その好きになりきれないぐらつきが、本を読ませる力になっているのだとも思うから、「まあ、こんなもんでいいかな」ととりあえず納得する。


 今日の読書のBGMはこれ。

ハンク・モブレー

ハンク・モブレー