「しあわせ」は「かくてありけり」。

今日は1日会議に費やす。昼食抜きで夜になる。


退勤後、本屋へ。

最後の晩餐 (光文社文庫)

光文社文庫の〈食〉の名著復刊の2冊目。先月は吉田健一「酒肴酒」、来月は色川武大「喰いたい放題」だ。


この本を手に、トンカツ屋に入る。ロースカツ定食を頼んでから、おもむろに「最後の晩餐」の角田光代解説を読み出す。
角田さんが座右の銘としている開高語録を引きながら、味を言葉で表現することに全力を傾けた先達に対する強い尊敬とそれを受け止め己を高めようとする高揚感が伝わってくる力のこもった解説だ。解説の役割の一つがまだ購入を思案中の読者に対する煽りであるとするなら、まさに天狗に鉄扇で思い切り扇がれたような見事な煽りぶりに感心しているうちにカツが来た。
“物書きたるもの言葉にできない味などとけっして言ってはならない。言葉にならぬものを言葉にすることが物書きの最低限度のつとめである”(要旨)という開高語録に反し、プロならぬ僕はサクサクの衣と脂が混じった肉汁とソースと芥子が寄ってたかって口内に広げる旨味を何と表現してよいか知らない。その旨さに沸き立つ舌の上に、しっとりといい具合に炊かれた白い御飯を運んでくる幸せも筆舌に尽くしがたいのだ。


帰宅後、「三國一朗の人物誌」から“海音寺潮五郎”と“李礼仙”を読む。三國さんはNHK大河ドラマ「黄金の日々」にも役者として出演されていたことを知る。


ブログ散歩。「日用帳」でふじたさんが、野口冨士男「しあわせ」、「かくてありけり」に触れているのを読み、本の山から2冊を取り出す。ともにそれぞれ別のブックオフで見つけたもの。それぞれの箱に“100円”と“105円”の札がついている。栃折久美子さんの装幀になる黒字に朱で題名と作者名の入った「かくてありけり」を箱から出して眺め、戦後に幻となった長編小説の装画として使うはずであった富本憲吉氏の絵をあしらった箱とそのことにふれた「しあわせ」の“あとがき”を眺める。


WBCでアメリカがメキシコに2対1で敗れる。日本の準決勝進出が決まった。ちょっと、不思議な脱力感。


今日のピアノトリオ。

Mingus Three

Mingus Three

イントロデューシング

イントロデューシング

そろそろ寺島本掲載アルバムの手持ちが尽きてきたので、未掲載アルバムが多くなってくる。
前者は、“怒れるベーシスト”ミンガスのピアノトリオアルバム。このアルバムはピアノを弾いているハンプトン・ホーズの証言からソニー・クラークのファンにとって見逃せない1枚となったもの。というのも、麻薬中毒のホーズがレコーディング中に我慢できなくて麻薬を打ちに行っている間にたまたまスタジオに来ていたクラークがある曲の最後の2コーラスだけ代わりにピアノを弾いたと言うのだ。そのため、どの曲の最後がクラークなのかが気になってアルバム自体を冷静に聴けなくなってしまっている。しかし、未だにどれがその曲なのか分からない。
後者は、若くして交通事故に散ったカール・パーキンスの唯一のリーダーアルバム。何の気なしにCDのライナーノートを読んでいたら、彼が事故で命を落としたのが1958年3月17日であることを知る。今日が彼の命日だとは。うまく炊けた御飯のように、粒が立っているピアノの音に耳を傾ける。