銀座1951。

仕事を終えて、電車で京橋へ。向かうは国立フィルムセンターである。
今日の4時から成瀬巳喜男監督「銀座化粧」が上映されるのだ。まだ一時間近く時間があるため、遅めの昼食をとろうとするが、この周囲には手頃な店がなく、フィルムセンターの裏手にある高級料亭風のそば屋に入り、大海老と蟹の天重を食べる。天ダレを自分で容器からかける方式なので、下品だとは思いながら、ご飯にたっぷりタレをからめていただく。
フィルムセンターに入ると、長い行列ができており、二階への階段から一階の待合室は既に埋まっていて、地下に向かう階段の途中に並ぶ。前回の伊丹万作監督「国士無双」よりも成瀬映画は人気があるということか。僕の次には常連と思われるおじいさんが並ぶ。誰に話しかけるともなく、「明治の時代には、『映画なんか観てるやつは、飯が食えない』と言ったもんだ」とか、「映画なんか、何本観たって別にどおってことはないだよ。なんにもなりゃしない」といった言葉を次々と繰り出していく。隣りに並んでいた女性に「今日の映画は杉村春子は出てるんだっけ」と聞き、女性が「いえ、田中絹代が出てます」と答えると、「そうかい。その二人じゃ格が違い過ぎるよ」ときっぱり。いったいどちらが上でどちらが下と思っているのかなと少し興味を持って聞いていたのだが、すぐに話は別のところに行ってしまい、結局どちらか分からずじまい。
「銀座化粧」は1951年の作品。昭和20年代の銀座界隈の風景がたっぷり見られる。子連れの女給である田中絹代の未来に光明は見えないが、気のいい大家夫婦の親切や子供の春雄の愛らしさに救いがある。田舎から出てきた青年に対する田中絹代のほのかな恋心が妹分の香川京子と青年の結婚であっけなく潰えるクライマックスは、ほとんど盛り上がらずにあっさりとドラマは幕を閉じる。物足りなさは残るが、田中絹代が着物を着付ける仕草や酔って帰ってきた彼女が酔いざめの水を飲んだコップを上の棚に戻す姿などの細部を楽しむ。“神は細部に宿る”というように、昔の映画を観る楽しみはこのような細部にあるように思えてならない。
少し暮れかかった空の下、京橋から銀座へと歩く。さっきまで観ていた銀座の50年後の姿を眺めながら。伊東屋の脇を入り、奥村書店へ向かう。すると通りの右奥の方に「鉢巻き岡田」があるのを偶然見つける。あの山口瞳“男性自身シリーズ”でおなじみのあの料理屋だ。なんだか、文学的世界遺産を眼前にしたような気分。とうてい僕が足を踏み入れるような場所とは思えず、とりあえず店構えを見るだけで満足してその場を離れる。
奥村書店で1冊。

鮮やかなオレンジ色が目をひく。与謝野鉄幹、晶子、山川登美子の三角関係を描いた小説。たぶんもう文庫で出ることはないだろうと思われるし、帯付き美本で400円は悪くない。
靴屋のスコッチ・グレンを覗いてから、山野楽器へ。畠山美由紀のCDを一枚買って帰る。
今日の携帯本は武田徹「偽満州国論」(中公文庫)。半分ほど読んだ。真ん中あたりで吉本隆明共同幻想論」についての長い解説となる。大学時代に「共同幻想論」や「言語にとって美とはなにか」などが角川文庫に入り、人並みに買ってみたりはしたのだが、結局読んだのは「共同幻想論」だけ。しかも、内容はほとんど理解できずに頭の中を通り過ぎていったようなもの。「遠野物語」が出てきたのと、“共同幻想”、“対幻想”といった言葉が出てきたことぐらいしか記憶に残っていない。武田さんの解説で少しは理解できるだろうか。不安。
地元に帰り、久し振りにいつもの料理屋で夕食。オススメメニューに“夕顔のそぼろ煮”があった。夕顔の煮物は大好物。実家にいるころはよく母親が作ってくれた。昔、「ニュースステーション」でやっていた“最後の晩餐”(明日死ぬとしたら最後に何を食べるか)を見ながら、自分が最後に食べたいものは、鶏肉と夕顔の煮物しかないと思うくらい好きな食べ物だ。少し皮の硬さの残った食感と、そのほろ苦い味わいが何とも言えない。この店のそぼろ煮は、おいしいのだが、僕がのぞむ味と比べるとちょっと上品すぎる。醤油と味醂と砂糖で煮た少し下世話な味がいい。

新東宝映画傑作選 銀座化粧 [DVD]


【月刊アン・サリー計画/今日の1曲】

大貫妙子矢野顕子に続いてアン・サリーのバージョンも聴いてみたい。