3冊の本。

本日も、仕事が終わってからダンスの練習(これも仕事のうちではあるのだが)。1時間半余りを休みなしで踊りまくる。その姿をビデオに録画してチェック。たぶん10代の頃なら、自分の情けない姿に一瞬“死んでしまおう”と考えたに違いない。サンバのステップがどうしてもできない。ブラジルに生まれなくてよかった。
今日、職場の会計から出張時の昼食代が千円ほど戻ってきた。これでまた本を買ってしまうのだろうな。悪いことに今日は鞄に本を入れ忘れてしまっている。本当なら、高島俊男お言葉ですが…6」を持ってくるはずだったのだが。携帯本がないと、バス待ちの時間などに手持ち無沙汰になってどうもいけない。そこで、本屋に寄って携帯本を物色する。家に帰れば、読まなければいけない本が列をなして待っているのだから、小説などの後をひくものは避けたい。そうなると、エッセイ集がちょうどいい。そこで選んだのがこの1冊。

思い出してみると、集英社文庫のもう一つの関川作品である「昭和時代回想」も、出張先で数時間待たされることになり、本を持っていなかったため急いで近くの本屋に行って入手したという思い出がある。どうも、僕と関川本はそういう巡り合わせになるらしい。
バスの待ち時間だけでは1章も読めないので、バスステーション近くの大戸屋で夕食を済ませることにする。ここはいつも混んでいるので、食事が来るまでの待ち時間に結構本が読めるのだ。新メニューの茄子のニンニク炒めと辛味噌ダレのうどん定食を頼む。茄子が昔から好きなので、それにつられたのだ。ニンニクの風味がきいた茄子が旨い。ただ、いつも大戸屋で思うのだが、ここのご飯はおいしくない。定食屋であることを売りにしているのなら、まずご飯がおいしくなくてはダメだと思う。いかにご飯を美味しく食べさせるおかずを揃えるかが定食屋の腕の見せ所だろう。
食事の待ち時間とバスの待ち時間で第1章「なぜ私は本を読むのをやめられないのか−『友情』など」を読む。著者の読書遍歴がリアリストの母と全集本を飾っておくだけで満足している父の姿を媒介にして語られる。物心ついた時に家に本がたくさんあるという環境がうらやましい。
僕の家には親の買った本は3冊しかなかった。和裁の本と料理の本と「頭のいい子に育てる方法」の3冊だ。手垢すらついていない最後の本を眺めては、読むことをしなかった親を子供心に恨んだりしたものだ。
そんな環境に育ったため、文学全集がある家がうらやましかった。大学合格が決まった時、遅ればせながら親に借金して「定本坂口安吾全集」(冬樹社)と「世界文学全集」(集英社全88巻)を買った。安吾全集は卒論へとつながっていくのだが、文学全集の方は、全巻読破を目指し、第1巻のホメロスオデュッセイア」から読み始めたものの、ドストエフスキー、ツルーゲーネフ、ヘミングウェイなどの数冊を読んだだけで、今では実家の厄介者となってしまっている。そんな有様だから、子供の頃に文学全集があったとしても、今の自分よりましな人間になっていたとは到底思えない。親を恨むのはやめました。
家に帰って、「インテリア・オブ・ミー」の続きを読んだ。