積ん読本に思いを馳せて。

退勤後、職場の分掌の懇親会に参加。ユニークなキャラクターの新人女性が場を和ませてくれる。彼女がボケを一手に引き受け、みんなが総ツッコミ状態となる。
散会後、本屋に寄る。

「お言葉ですが」シリーズはすべて文庫本で読んでいる。『週刊文春』連載のものが単行本になる時に、雑誌掲載後の反響などを取り入れた[あとからひとこと]が付け加えられ、それが文庫本になった時にまた追加される。それが楽しみということもあるのだが、何故だか雑誌連載時にはあまり読む気が起きず、文庫本になって移動の電車内などでまとめて読んだ方が面白味が倍加するような気がするのだ。
佐藤本は、この本自体への興味とともに、積ん読本となっている「言論統制」(中公新書)読破への呼び水となることをも期待しての購入。そんなこと言っていないでサッサと読めばいいのにと我ながら思うのだが。
本屋で一緒に『図書』7月号も貰ってくる。バスを待ちながら、矢野誠一さんの「落語速記本の多面性」を読む。田鎖綱紀の教えを受けた速記者二人が、アルバイトで行った三遊亭圓朝の「怪談牡丹燈籠」の高座記録がベストセラーになり、漢籍の素養豊かな速記者たちの個性が現れた宛て字によるその文章は、二葉亭四迷から夏目漱石に至るまで多くの影響を与えたが、その後録音機器などによる機械化が進んだため、記録者の個性よりも演者の発話の忠実な再現に向かい、「圓生全集」や筑摩書房古典落語」でひとつのピークを迎えるという落語速記の歴史を概観した後、次のように展開する。しかし、安藤鶴夫の「落語鑑賞」は、藝の忠実な再現にとどまらず、内容に編集を施すことにより、安藤鶴夫の文学ともなっていると評価する。そして、近年の落語速記本の新たな可能性として「立川談志遺言大全集」における『書いた落語傑作選』という《読むための落語創造という文学的作業》を挙げている。
積ん読本となっている「落語鑑賞」を読まなければという気持ちを強くさせる一文だ。そうだ、福岡隆「日本速記事始」(岩波新書)も積ん読してあったっけ。
家のポストに白水社から「出版ダイジェスト」が届いている。一面は枡野浩一さんの「つたえられる」という文章。言語(文章や短歌など)で思いを伝えることの困難さを自覚しながらも伝えるという努力を決して放棄しないことの大切さを語る文章の末尾に、別れた奥さんが裁判所の取り決めに反して子供に会わせてくれないことの悲しみが綴られる。先日読んだ上原隆さんの文庫本解説でも枡野さんは同じ思いを書いていた。というか、僕が目にする氏の文章のほとんどで同じ思いが表白される。書いている本人も自覚した上でのしつこさであり、未練タラタラである。すでに平成の近松秋江と化している感がある。未練もここまでくればあっぱれという気もしてしまう。