トレーナーと「構造と力」

今日は、夕方から例年恒例の職場のイベントが行われる日。残業で遅れ、慌てていつもの会場へ向かう。汗をかきながらやっと辿り着くと、会場の灯は消え、人っ子一人いない。まるでドッキリカメラだ。携帯で同僚に連絡を取ると今年は会場が変わっているとのこと。思い込みとは恐ろしいものだ。イベントには間に合わなかったが、その後の打ち上げに参加。若い人達と飲むのは楽しい。
帰りのバスを待ちながら「グロテスクな教養」の続きを読む。ニューアカデミズムの総括を読みながら、大学時代を思い出す。イクシーズのトレーナーを着て、浅田彰「構造と力」と中沢新一チベットモーツァルト」を持ってキャンパスを歩くのがトレンドだった時代。僕のいた国文学科でも、柄谷行人日本近代文学の起源」が話題をさらっていた。
僕の通っていた大学の近くに柄谷行人氏の家があり、一度その家の前を通りかかった時、氏が庭先で作業をしているのを見かけたことがある。柄谷氏といえば、「意味という病」(講談社文芸文庫)の作家案内で恩師の曽根博義先生が学生時代の柄谷氏エピソードを語っている。曽根先生がやっていた翻訳会社のバイトに応募してきた柄谷氏はある東大教授の論文を見事な英文に翻訳したのだが、当の教授はかんかんに怒ったという。その理由は教授の出来の悪い原稿にあきれた氏が元原稿に「バカ」といった書き込みをしたからである。柄谷氏面目躍如といったエピソードだ。
著者の高田理惠子氏によれば、ニューアカブームが最後の教養の時代であったとのこと。その時代に大学生であったことを喜ぶべきなのだろう。少なくとも、小難しい本を読めば自分が成長すると信じることがまだできた時代であった。学部を卒業し、院生になった頃、キャンパスからトレーナーは消えて、DCブランドのスーツが闊歩するようになった。そして、学生達の手に勁草書房せりか書房の本は見当たらなくなっていった。
意味という病 (講談社文芸文庫)