あに・いもうと

職場で、返ってくることを期待していなかった2,500円を渡される。反射的に「今日は2,500円分の本が買える」と思ってしまう。思うだけではなく、実行してしまう自分がコワイ。優柔不断を絵に描いたような人間のくせに、本を買うことだけは靖国神社参拝の小泉首相並みに有言実行の男となる。
別に誰に強制されたわけでもないのに、本屋で2,500円分の本を求め棚を周遊してしまうのだ。

2冊で〆て2525円。25円オーバーだ。『本の雑誌』は開いたページが津野海太郎氏の「初期の晶文社」というエッセイだったので、これ読みたさに即購入を決定する。「フライング・ブックス」は晶文社の古本屋店主本シリーズの一冊。このシリーズは無条件で買うことにしている。しかし、これまでの古本本とは判型や装幀の雰囲気を変え、お洒落な店の佇まいを強調している感じ。渋谷のフライング・ブックスには、数回行ったことがある。店の雰囲気、置かれている本のセレクトは申し分ないのだが、なぜかこれまで委託の雑誌を1冊買っただけで、本は1冊も買えていない。一度コーヒーを飲んでみたいとも思っているのだが、カウンター席のみで背の高いスツールに腰掛けて女性のスタッフと真向かいになるのが億劫でつい敬遠してしまうことになる。テーブル席が2つくらいあればいいといつも思うのだが。結局、1階の古書サンエーで安い文庫本を買って帰ることになる。同じ古本カフェでも、池ノ上の十二月文庫ではカウンターでコーヒーを飲むのに抵抗を感じることはないのだが、これは店主の田之上さんの人柄によるものだろう。そう言えば、古本カフェの本家である西荻ハートランドには何度となく足を運んでいながら、一度もコーヒーを飲んだことがない。初めて行った時には注文までしたのだが、ご主人が不在で断られ、その後はなんだか頼みづらくなってしまい現在に至っている。一度くらいはコーヒーを飲みながら店で買った本を読んだりしてみたい。
バスの待ち時間などに津野氏のエッセイや坪内祐三氏の読書日記に目を通す。読書日誌には坪内さんが月の輪書林の高橋さんとフライング・ブックスで待ち合わせるという記述が出てくる。この記述に出会っただけで「フライング・ブックス」を今日購入したことは報われるのだ。たとえ本が積ん読状態におかれ、部屋の片隅で記憶の澱の中に長く静謐な時を過ごすことになろうとも。
帰宅後、DVDで成瀬巳喜男「あに・いもうと」を観る。黒澤明「野良犬」が夏の映画であるように、この「あに・いもうと」も夏が主役の映画だと思う。冒頭の川の水流もシミーズ姿で井戸水を浴びる京マチ子もかき氷を持つ久我美子にラムネを差し出す浦辺粂子も半袖のシャツから刺青を覗かせる森雅之もすべて夏を表現するために演技しているかのようにさえ思えてしまう。ただ一人、京マチ子を妊娠させた船越英二だけが学生帽に黒い詰め襟姿で上記の演技者たちが構成する赤座家とは異質な人間であることを示しているかのようだ。いくつかの夏が過ぎるうちに子供を流産した京マチ子はあばずれ女となり、久我美子は恋人と別れ、父親の山本禮三郎と兄の森雅之は失意の中に沈潜して行く。ただ、母親の浦辺粂子だけが淡々と現実を受け入れ、劇中に登場する精霊流しのように過去をひたすら流し忘れようとする。森雅之京マチ子の兄妹喧嘩の大立ち回りがひとつのクライマックスなのだが、画面は静かであり、その終わりかたもひっそりとしている。「稲妻」のような劇的な印象はない。味わいのある小品、そんな印象の映画。
敬愛する友人からメール。最近多和田葉子作品にハマっているとのこと。1週間で3冊読んだと言う。多和田葉子氏の小説には以前から関心があるのだが、未読。先年出たユリイカの特集号などを拾い読みなどして関心の種火は育ってきている。そろそろ踏み出してみろという合図かも。
向井透史さん、退屈男さん、林哲夫さんといった見巧者が推挙しているブログ「エエジャナイカ」の日記が3日分一気にアップされている。僕もakaheruさんの文章は大好きです。特に6月7日の日記。首が痛くなるくらい頷いてしまう。「yomunelの日記」のyomunelさんといい、akaheruさんといい、若いのに味のある文章を書く人が多いなあと感心してしまう。僕にとっては近所に住む素敵な「あに・いもうと」(「あね・おとうと」でしょうか)を見るような気分。
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