赤影参上。

本日は出張。野外での仕事となる。天気よく、5月の陽光を浴びながら午後まで仕事をする。
地元の駅に戻り、午後遅く大戸屋で昼食。個人的定番である“鶏と野菜の黒酢あん定食”を食べる。偶然にも左右のお客さんも同じものを注文していた。同じものをよく食べるので気になるのだが、そのときによって鶏と野菜のバランスが結構違うのだ。野菜が少ない時は鶏の唐揚げが多く、その逆の時もある。今日は前者だった。ほんとうは後者であるとうれしいのだが。
食事の後は床屋で散髪。髪を切られながらウトウトと居眠り。これが気持ちいい。家に帰り、鏡を覗いてびっくり。目の回りだけ四角く真っ赤に日焼けしている。まるで怪傑ゾロのマスクみたい。いや、赤いから赤影かな。今日一日花粉用のマスクをして日の下で働いていたのでこうなったようだ。我ながらその顔を見て笑う。よく床屋の人は我慢していたなあと感心する。居眠りに熱心でろくに鏡を見なかったので気付かなかった。
家で永井龍男「青梅雨」(新潮文庫)読了。今日は車中で、大戸屋で、床屋の待ち時間でずうっとこの本を読んでいた。久方ぶりに小説と日本語を堪能したという思いがする。永井氏の小説を読むのはほとんど初めてと言っていいのだが、こんなに優れた小説家であったかと今更ながらに自分の不明を恥じる。
氏の短編小説を読んでいると、肯定的な意味で無駄な時間を過ごしているという快い気持ちになってくる。作り物の小説を読んでいるのだという喜びが溢れてくるのだ。何気ない箇所でも小説の文章としか言いようのない表現が心をつかむ。例えば「灯」という作品の次のようなフレーズ。
〈飛行機が胴を明けて乗客の列を待っていた。〉
〈沢北は雑誌を捨てて、かなり永い間それに見入った。〉
何気なく書かれているが、〈胴を明けて〉や〈雑誌を捨てて〉といった言葉の使い方は簡単そうだがなかなかできない。
そして、永井龍男氏の作品は、僕などが言うのはおこがましいのだが、小説としての素性がいい。「電報」という作品に出てくる〈サービス・ガール〉や〈食堂ガール〉などのレトロな表現もそしてこの作品のなんだか快い脱力感のある結末もとても端正であり、小説としての品の良さがある。
個人的にいい小説というのはどこか変な感じのするものだと思っているのだが、この「青梅雨」に収められている作品もやはりどこか変で怖い。ある人物の葬儀を異なる視点(それは視点人物の違いに収まらない“異なもの”を含んでいるのだが)から描いた2つの作品(「私の眼」、「快晴」)に顕著に感じられるように思う。「私の眼」を読んでいる時の主人公に対して感じる居心地の悪さのような違和感は、「快晴」で別の視点から〈犬といっしょに広場で時を待っていた男〉として描かれる。この表現だけ抜き出してはよく分からないとは思うが、2作を続けて読んだとき、後者の終わり近くに出てくるこの表現の怖さはたまらない。〈犬といっしょに広場で時を待ってい〉るというのが怖いのだ。それは、「冬の日」で主人公の女性が見る元日の夕日の悲しい怖さにも通じるものだ。
僕の能力ではうまくこの作品集の面白さ、すごさを秩序立てて説明することができない。なんだか分かりにくい説明ですみません。それにしても、500円硬貨1枚でお釣りがくる値段で、この本が現在新刊書店で手に入るということはとても喜ばしいことだと思う。岡崎武志さんが賞賛していたのも納得の1冊だった。