あの本はあの店で。

今朝も徒歩通勤。すこし肌寒いくらいの朝の空気が歩いているうちに火照った体に気持ちよいものに変わっていくのがいい。ウォーキング・ハイかな。快感。
帰りも気持ちよく歩いて帰る。
「ナンダロウアヤシゲな日々」の昨日の日記を読むと、「本のメルマガ」に連載していた 「全点報告 この店で買った本」を次号でやめるという告知がされている。なぜやめるのかという理由は「本のメルマガ」とブログで詳しく説明されている。南陀楼綾繁さんの決定に異を唱えるつもりは毛頭ないが、個人的には残念。
僕は雑誌「recoreco」(メタローグ)に掲載されていた“レコレコ版”でこの「全点報告 この店で買った本」を知り、同時に南陀楼綾繁という名前も覚えたと記憶する。本に携わる仕事とはいいながら、この人はこんなに本を買っている、なんて凄い人だろうというのが第一印象であった。それから、ただどこの書店で何の本を買ったというだけでなく、その書店に関するコメントがつけられているのが楽しく感じられた(特にレコレコ版)。普通の新刊なら、色々な書店で買うことができるわけなのだが、何故その店で買ったのかということを想像させてくれる面白さがあったと思う。
そういった場所へのこだわりというものは僕にもあって、例えば雑誌「文学」は岩波ブックセンターで買った方が嬉しいし、『彷書月刊』や『サンパン』、『ブッキッシュ』といったミニコミ誌は大手書店でも手に入るがやはり書肆アクセスでないと買った気になれない。そして晶文社の本は何故か日本特価書籍の棚にある方が魅力的に見えてしまう。
本を買うということは、その本を売っている雰囲気も一緒に買っているのだとも思う。冨山房百科文庫を書店で見かける度に、今は無くなってしまったすずらん通りの冨山房書店の棚の姿が浮かび上がり、一冊買う度に冨山房の思い出も一緒に家まで連れて帰ってくる気分なのだ。少なくとも僕にとっては、南陀楼綾繁さんの連載は、単なる新刊購買報告ではなく、書店で本を買うというドキュメンタリーであったし、本と書店の結びつきを思い起こさせてくれるものであった。
南陀楼綾繁さんは〈書物関係のブログでは、自分が買った本について報告するのがごくフツーのことになりつつある。もっと熱心なヒトのブログに任せたい。〉として、退屈男さんや四谷書房店主さんとともに僕の名前もあげてくださっている。過分な扱いをしていただいてとまどってしまう。僕などは、南陀楼さんのような目的意識も使命感もなく、ただ自分が好きで買った本をだらだらと日記の中で挙げているだけだ。それが他の人にどんな意味を持つかなんてまったくわからない。
「全点報告」のカタチでの連載は終わるのだろうが、この店でこの本を買ったという書店と本の結びつきに関わる文章は何か別のカタチで続けていただきたいと勝手に希望しつつ、今日は寝ることにします。