文學界と文藝

今日は、新しいスタッフとの仕事がスタートする日。大勢の初対面の人達に会い、その人達に向かって話をしたので疲れた。
職場を後にすると、周辺の桜が街灯に照らされながら風にそよいでいた。まだ咲き切っていない桜は、花を散らすこともなく、春の風を楽しむ風情だ。
書店で、雑誌を2冊。なんだが最近雑誌ばかり買っている気がする。

  • 文學界』5月号
  • 『文藝』2005夏号

『文学界』の特集は“文学の中の危機”。特集の一編を紅野謙介さんが書いている。紅野先生には院生時代にお世話になった。当時、小森陽一氏や石原千秋氏らに代表される記号論構造主義のタームを駆使した作品論がイケイケゴーゴーであったのだが、紅野先生の新しい思想と伝統的な方法をうまく噛み合わせたバランス感覚に優れる仕事を見てその悠揚として進んで行く姿に尊敬と羨望を感じたものだ。その後、「書物の近代」(ちくま学芸文庫)、「投機としての文学」(新曜社)という2冊の本を出された。ともに面白く、近代文学に関心のある人にお勧めの本となっている。現在の出版事情や紅野先生のご都合ということもあるのだろうが、これだけの人が2冊の本しか出していないというのは、もったいなさ過ぎる。もっと本を出してほしいものだ。
小谷野敦氏の連載「上機嫌な私」は谷崎潤一郎の研究者である細江光氏の実証的な研究を賞賛しながら、『國語と國文學』(東京大学国文学研究室)に掲載された小泉浩一郎氏の谷崎に関する論文を批判する。氏は、そこに“文豪”を《反戦主義者や天皇制批判者として祀り上げたい》という欲望の存在を見ている。このことも興味深いのだが、やはりこの人の真骨頂は、それに絡めて語られる、自分の原稿が『國語と國文學』で没になったという話。小泉論文の存在を自分の論文が内容粗雑という理由で没になったわけではないという判断材料としても使っているのだが、このことを書いたために、やはり、小泉批判には嫉妬があるのではないかと読者に思わせる余地を与えてしまっている。これは、意図的にそう思わせるように書いているのだろうか、それとも自然とそういう感情が文章から漏れ出てしまうのだろうか。今のところの僕の判断では、その両方がほぼ半分ずつあり、すこし自然の発露の方が勝っているかなという感じ。どちらにしても、小谷野エッセイ愛好者の多くはこの部分を求めているのだろうから、これがなくなっては読者が減ってしまうことになりそうだ。
『文藝』は、“しりあがり寿”特集。もはや文芸誌というよりは季刊のムックという感じになっている。それでも他の文芸誌にない特集の量と読み応えを、自社出版物のゲラ刷りと化しているその他の文芸誌はすこし見習った方がいいと思う。
文藝 2005年 05月号