古着の中の「永すぎた春」

昨晩、伊藤昭久「チリ交列伝」(ちくま文庫)を読了。
三軒茶屋にある「古書いとう」のご主人が、チリ紙交換の立場(『たてば』と読み、チリ紙交換の集荷場、問屋のこと)に勤めていた頃の経験を文章にしたものである。とは言え、伊藤さんはその経験を一人称のエッセイとして語っているのではなく、三人称を使い、事実を再編集する形で1編の短編小説のように仕上げている。このような形態をとったのは、本書に収められた文章を書こうとした理由が次のようなものであるからだろう。
《わたしにとってチリ交は仲間であり戦友でした。わたしは原料屋をやめ古本屋になって、チリ交という一筋縄ではとらえきれない、変わった人達がいたことを書いておきたくなったのです。》
つまり、自分の経験を書く事が目的ではなく、自分の見たチリ交の人達の姿を描き出す事に主眼があったため、筆者自身の姿を三人称によって消してしまうという方法を選択したのだと思われる。様々なあだ名をもつ登場人物達は、皆それぞれの過去を背負い、借金や自分でも変えようのない性格などのために自由気侭で束縛されることのないチリ交の世界に足を踏み入れた一癖も二癖もある存在である。そういった人々を伊藤さんは一定の距離を取りながらも、決して切り捨てる事なく見守っている。各章の終わりに必ず挿入される立場の情景描写は、筆者がそんなチリ交の人達や彼らを見ている伊藤さん自身も含めてともに突き放しているようでもあり、また同時に包み込んでいるようでもある不思議な読後感を残す効果をあげている。
この本の舞台ともなっている立場は、僕にとってなじみの深い場所である。父親が古着の卸売業を営んでいたため、その仕入れ先として製紙原料商の立場があった。チリ紙交換が紙の他に回収していた古着を買い付けに行くのである。父親の手伝いで小学生の頃から度々立場を訪れ、古着の入った籠の向こうに堆く積まれていた雑誌の山や漫画の本に心奪われたことを思い出す。
立場から買ってきた古着の山の中には、時折本が混じっている事があり、その中の1冊に三島由紀夫の「永すぎた春」(新潮文庫)があった。中学生になっていっぱしの読書好きを自認していた僕は、早速読んだことを覚えているのだが、その内容の方はまったく覚えていない。ところが、昨年青木正美「古本屋五十年」(ちくま文庫)を読んでいたら、古本屋や古本市場の出てくる小説として「永すぎた春」が取り上げられているので驚いた。主人公の婚約する女性が古本屋の娘という設定なのだ。まったく忘れていた。
こんな風に思い出していると、自分が幼い頃から古本に縁がある生活をしていたのだなあと思わずにはいられない。毎日のように古本屋を覗き、休日には時間が許せば古本屋回りに電車に乗って出かけて行くという現在の生活は、やはり僕にとって不可避なものであったのかなどと腕組みをしてしまう。
古本の話が中心ではないので、古本好きにはちょっと物足りないかもしれないが、チリ交と立場が描かれる「チリ交列伝」はそう言った意味で僕にとって懐かしく、楽しい作品であった。
こんど、「永すぎた春」を読み直してみようと思う。
チリ交列伝―古新聞・古雑誌、そして古本 (ちくま文庫)   永すぎた春 (新潮文庫)