あの胃に帰りたい。


 あっという間に8月になっていた。


 今週の月曜日から今日まで5日間大学生をやっていた。正確にいうのなら7月31日から8月4日まで大学に通って授業と試験を受けていたということになる。なぜ、そんなことをしたのかと聞く人があるかもしれない。それは、僕の仕事には資格が必要であり、その資格は公的機関の取り決めにより、所定の期間の内に資格更新のための講座と試験を受けることが義務付けられているためなのだ。この講座を受ける年は公的機関によって定められており、僕は今年の受講を割り振られていた。この講座をどこで受けるかは各自の判断に任せられている。講座を開講している大学へ行って受けてもいいし、インターネットで受講して試験を受けることも可能らしい。調べてみると、自分が通った大学の学部で講座が開講されることを知り、久しぶりに(約30年ぶりである)大学時代を過ごしたキャンパスに通ってみることにしたという次第。


 7月30日の日曜日は前の週に引き続き、母校の大学(学部は僕の出身学部ではないが)へ行き、僕と同じ仕事に就くことを希望している大学生相手に1日5時間の授業を行った。今回は10名以上の学生がいたのでこちらも安心して楽しく授業をすることができたのだが、翌朝の月曜には、今度は学生の立場になるために大学へ向かうのだから頭の切り替えが難しい。


 初日の31日は初めて登校するということもあり、早めに家を出る。普段、電車通勤をしていない者にとって朝の電車に乗って行くというだけで少し気が重い。電車は身動きできないほど混んでいないだろうか? 間違って女性専用車に乗りはしないか? 痴漢と間違えられて仕事をクビにならないだろうか等々頭の中はグルグル状態である。駅に行ってみると早出が功を奏して、電車もそれほど混んでおらず、思ったより快適に下高井戸の駅に着くことができた。学生時代のように大学までの一本道を歩く。商店街の店はほとんど変わってしまったが、昔の店がまだ何軒か残っているのがうれしい。昔からある豆腐屋が朝から豆腐を作っている横を通って大学へ。桜並木の下を行くと正門に出る。正門を入ると正面に昭和12年竣工の1号館が見えた。大学生時代にもうすでに古びた昭和建築の香り漂う建物であったが、その頃と寸分たがわぬ佇まいに思わず足を止める。あの頃も一番好きな校舎であったが今見てもやはり好きな建物だ。自分が行くべき教室は別の建物なのだが、迷わず1号館に入った。正面の階段の手すりのアーチの曲がり具合、小さな花の集合体のような天井の照明、色はくすんでいるのにテラテラと光を発しているグレーの廊下、全て昔のままで懐かしくも楽しい眺め。この建物で英語や書道の授業を受け、研究会の発表を行った。まさか、30年後ここに立っていることになるとは当時は想像すらしなかったな。



 教室に入れるのは8時半からとなっている。まだ15分以上あるため、自販機でコーヒーを買い、1階のテラス席で講習の資料を読んでいると名前を呼ばれる。大学時代の同級生がそこに立っていた。彼女は、都内の同じ親会社をもつ職場に勤めていてたのだが、親の介護のために去年仕事をやめたはずだ。「また、仕事に復帰するかもしれないからとりあえず資格だけは更新しておこうと思って」と言う。他の同級生の動向などを話していると、同じ親会社傘下で東北にある職場に勤めている同級生もやってきた。「夏休みを取って、実家に泊まりながらここに通おうと思ってさ」と言う。ちょっとした同窓会状態となって盛り上がる。やはり、ここにしてよかったと思う。



 授業は朝9時から始まり、午前3時間、午後3時間。そしてその日受けた授業に関するテストが午後5時から6時まで1時間ある。このテストで60点以上取らないと資格の更新は認められないというシステムである。一日6時間の講義を受けるのは想像以上に辛い。一応必修授業の他に選択授業があるのだが、選択できると言ってもすべてが自分の興味関心のある講義ばかりではないというのが現実である。それでも、仕事を失いたくないので、真面目に授業を受け、ノートをとる。毎日授業担当の先生が変わり、授業内容も教室も受講生も変わる。ある日の授業では、後ろに現役の競輪選手が座っていたし、小笠原諸島からきたという若い女性もいた。京都から来た年配の男性もいた。自分の職業が何で、今どこにいるのかを一瞬忘れてしまうような不思議な空間に日々身を置く面白さがあった。




 昼食は学生食堂を利用できるのだが、初日は行列ができていたので、売店でパンを買って済ませた。その後、構内にある本屋に行ってみる。冨山房が大学と契約して入っているようだ。生協的な役割を果たしているため、すべて値段は1割引である。学生でなくともその値段で売ってくれる。そういうシステムのためなのか店内の本は店の買い取りらしく、古本かと思われるような日に焼けた本が結構棚に並んでいる(地層と化した煮しめた色の岩波同時代ライブラリーには思わず見とれてしまった)。もちろん、文庫の新刊も並んでおり、先日買った講談社文芸文庫野口冨士男「感傷的昭和文壇史」もあった。値のはるこの文庫を1割引で買えるのならここで買えばよかった。大学内の本屋ということもあって講談社学術文庫ちくま学芸文庫の点数は見事。ただ、欲しい本はすでに皆持っているので目の前に1割引があるのに何も買えないのが歯がゆくてたまらない。食事後にこの本屋で午後の授業開始までの時間を過ごすのが5日間の日課となった。




 今日も、朝に1号館を堪能し、昼には学食で野菜たっぷりカレーとサラダ(計440円)を食べ、本屋で昼休みを過ごし、鬱病とその再発防止のためにグーグル社やマイクロソフト社が採用しているセラピーについての試験(論述式である)を受けて、僕の5日間の大学生活が終了した。


 もう小難しい本は読む気がしないので、下高井戸駅内の啓文堂書店で今日発売の尾田栄一郎ONEPIECE」86巻を買い、読みながら帰る。この大風呂敷を広げるだけ広げ、伏線をはるだけはってなかなか先へ進まない話を何も考えずただ読み進める。今日はそれで満足。


ONE PIECE 86 (ジャンプコミックス)


 地元の本屋で『BRUTUS』8月15日号を購入。特集は“とんかつ好き。”。そう、とんかつ好きなのだ。昔TBSドラマでやっていた「天皇の料理番」(もちろん、堺正章主演の方です)の第1話で、主人公(マチャアキ)が、目黒祐樹扮するコックが作ったとんかつの味が忘れられなくなるというシーンがあって、当時「とんかつを食べたくらいであんな風になるのはおかしい」という意見を誰かが言っているのを聞いて、「なに言ってんだよ、とんかつに心奪われて当然だろう」と思うくらいにとんかつが大好きだった。その気持ちは今も変わっていない。ただ、年齢的にとんかつをガツガツ食べるのは正直辛くなった。そして、ゆるい糖質制限をしているのでとんかつ定食は稀に条件が整った時にしか食べないようにしているという状況でもある。それでもとんかつは好きだ。どうやらここから数駅先に美味しいとんかつ屋があるらしい。これはそのうち条件を整えて食べに行かなくてはなるまい。5日間だけいいからあの頃の胃袋に戻りたい。


BRUTUS(ブルータス) 2017年 8/15号[とんかつ好き。]