濡れ雑巾を踏む。

今日の気分は、小林信彦オヨヨ大統領の悪夢」の文章を借りるなら、
《その日の私の気分ときたら、帰り道でホールドアップにあい、家の近くで酔っぱらいにからまれ、やっとの思いで玄関に辿りついたら、水気をたっぷりふくんだ雑巾を踏んづけた−−まあ、そんなものであった。》
と、言った感じだろうか。
別に何か大事があったわけではないのだが、このところ続いていた職場での些細なことに対する憤懣の鬱積が、今日ちょうどリミットを越えたということらしい。退勤時間を過ぎても、期限が迫ってきている職場の会報の編集作業をしていたのだが、ある程度のところを過ぎたら突然どうにも嫌になり、さっさと帰ってきてしまった。もともと僕ひとりで編集しているものなので、帰ったからと言って別に誰かに迷惑をかけることはないのだが、これで益々今後のスケジュールは厳しくなった。でも、いいや。今日はおしまい。
余程、不幸な顔をしていたのか、駅に向かう途中の坂で自転車に乗った2人のキリスト教宣教師から声をかけられたかと思うと、駅ビルでは数分の間に2人の人にぶつかり、バスに乗ろうとすると小銭を落とし、後ろに並んでいる人たちから冷たい視線を浴びせられる始末。まあ、こんな日もあるとあきらめるしかないな。
本屋に寄ると文芸雑誌の新年号が並んでいる。

新潮の真っ赤な表紙にもびっくりしたが、結局いつものやつを買う。新年号ということもあるのか、巻頭には小島信夫氏のエッセイ、それから新連載として庄野潤三「ワシントンのうた」が始まった。「ワシントンのうた」は《山の上》に住む老夫婦シリーズの続編ではなく、庄野氏の幼年時代を自伝風に書いたものとなるらしい。
その他、文房具屋で赤と青のボールペンやホチキスの芯などを買って帰宅。
着替えてすぐにまた外出。行き先はブックオフだ。もう何か気晴らしをしないと居ても立ってもいられない状態なのだ。「ブ」で3冊。

西脇本はその半分近くを日活アクション映画に費やしているのと、巻末に映画名索引が付いているのがいい。
川上本(選ですが)は、坂口安吾桜の森の満開の下」(大好きです)から藤枝静男「悲しいだけ」に終わる恋愛アンソロジー。どこかのブログで取り上げていたのが頭にあり、すぐに手に取った。他に車谷長吉野坂昭如という名前が並んでいる。
尾崎本は、平成6年の復刊。あの臙脂色の背のついた特別なカバーがついているヤツなのでダブリだが買っておく。この復刊が出たとき喜んで何冊も買い込んだのだが、その時は関心領域から外れていたため、小山清「落穂拾い・聖アンデルセン」は買っていない。かえすがえすも残念だ。今では古書価も高く、手に入りにくくなってしまっている。
家に戻り、『文學界』を読む。小島信夫氏のエッセイは最近おなじみの保坂和志氏との対談の話がまた出てくる。そこで保坂氏が小島作品からあえて1つ選ぶとすると「寓話」だと言った話が出てきて、また「寓話」を読まなくてはという気持ちがムズムズと湧いてくる。
その他、連載から小谷野敦氏のエッセイと狐氏の書評を読む。小谷野氏は軍歌の話。そういえば、まだ高校生の時、2段ベッドの上に寝ている弟が軍歌のテープを買い込んできて毎晩頭の上から鶴田浩二の歌う「同期の桜」が聴こえてきて困ったことがある。その前は長渕剛をギターで弾いていたはずなのに。現在、映画「男たちの大和」の主題歌を歌う長渕剛の姿を見ると、弟の変遷もなんだか納得できるような気もするが。
狐氏の書評は、小山清講談社文芸文庫伊達得夫「詩人たち ユリイカ抄」(平凡社ライブラリー)の2冊。小山本は読んだ。次は「ユリイカ」だ。
今日聴いたアルバム。

ハウス・オブ・ブルー・ライツ

ハウス・オブ・ブルー・ライツ

昨日のタル・ファーロウに関して南陀楼さんからコメントをもらい、その時に名前の挙がったのがこのアルバム。それならと早速CDの山から見つけ出してきて聴いてみる。エディ・コスタは打楽器的演奏と言われるような独特のスタイルにより、生前ピアニストとしての評価は充分になされず、もう一方のビブラフォン奏者として忙しくスタジオに通う日々を過ごすことになる。わずか31歳の若さでこの世を去る(交通事故だった)までに彼が残したピアニストとしてのリーダーアルバムはこの1枚しかない。当時は奇異に思われたらしい特徴的な演奏振りも、多くの異質なピアニストの栄枯盛衰を経た後の現在の耳で聴けば、才能ある個性的なピアニストの姿があるだけだ。例えば、ドン・プーレンのピアノを聴いた後に聴けば、いかにエディ・コスタが正統派のピアニストであるかがよく分かる。プーレンの曲者系の演奏も僕は結構好きですけどね。