文芸雑誌は誰が買う。

朝、出勤前にテレビでニュースを見ていると、アパートの2階の部屋で床が抜けた事故を報じていた。その原因が大量の雑誌と新聞の重みとは。まるで未来の自分の姿を見ているような思いがした。帰宅後にいつもの読書系ブログ散歩をしていると多くのブログでこの事件に触れている。やはり、みなさんも他人事ではないとお考えなのだろう。

今日は、文芸雑誌の発売日ということで、この2冊。

  • 『文学界』3月号
  • 『新潮』3月号

『文学界』は毎月買っている唯一の文芸雑誌。特に理由はない。大学時代に国文学科を選び、現在も僅かながら「文学」の周辺で仕事をしている自分自身に対する義務感のようなものかもしれない。別に『文学界』でなくてはいけないということはなく、買い始めた時に偶々面白そうな作品が載っていたのがこの雑誌だったため、惰性的に買い続けるようになったという程度のことに過ぎない。思い起こせば、大学時代に中央公論社の文芸雑誌『海』を毎月楽しみに買い続けていたころの情熱を今の文芸雑誌に感じたことは一度もない。年齢的なことも関係しているのだろうが、あのころの『海』には自分の知らない魅力的な世界が文学の中には溢れかえっているのだという気持ちにさせる勢いのようなものがあった。今でもどこかにそんな気持ちをもう一度というような感傷的な思いがあって、文芸雑誌を買い続けさせるのかもしれない。
それにしても文芸雑誌というのは一体誰が買っているのだろうか。こんなことを言うのは、僕以外に文芸雑誌を買っている人を見たことがないからだ。ほぼ毎日本屋へ行き、行けば必ず文芸雑誌の置いてあるコーナーへ足を運んでいるが、買う人はおろか、立ち読みが溢れる雑誌コーナーであるのに、文芸雑誌を立ち読みしている人を見ることすらもまずないのだ。知人・友人の中にも買っているという人間はひとりもいない。雑誌やブログなどの文章の中ではそういう人の存在に出会うが、それによって買っているのが自分だけではないと確認できるだけである。これだけ売れない雑誌と言うのも珍しいのではないか。それでも廃刊にならないのは、文芸出版社の意地としか考えられないのだが。
今月はなぜ『新潮』まで買ったかと言うと、巻頭に村上春樹「偶然の旅人」が掲載されているからである。(連作 東京奇譚集1)とされたこの村上氏の短篇は、「回転木馬のデッドヒート」を思い起こさせる、聴いた他人の話を文章としてまとめるスタイルをとった小説である。冒頭で氏自身の体験として語られるジャズがらみの2つのエピソードが楽しい。その後に語られる41歳でゲイのピアノの調律師にまつわる話が本筋であるのだが、これが事実であるかどうかというのは余り重要なことではないだろう。村上氏の作品を読んできた読者には、人気のない書店のカフェでディッケンズ『荒涼館』を読み、レストランでツナサラダを食べてペリエを飲み、ジムに行って贅肉を落とすこの調律師が村上ワールドの住人以外の何者でもないことは明らかなのだから。いつも通りと言えば、いつも通りの“村上春樹”としか言いようのない作品。マンネリとか新鮮味がないと評することもできるかもしれないが、やはり、最後まで面白く読ませてしまう力はさすがである。氏の最新短篇を毎月1篇ずつ読めるのなら、文芸雑誌もそう捨てたものではないと思えてしまう。