潮と古書。

 今日は年に一度の海辺の公園で行われる出張野外仕事の日。


 昨年は夏を思わせる暑さと、風邪による体調不良が重なりかなりしんどかったのだが、今朝はちょっと曇っていてすこし肌寒いくらいでけっこう過ごしやすかった。


 昼が近くなるにつれ太陽が顔をのぞかせ、ウインドブレーカーを着ているとちょっと汗ばむくらいには気温が上がった。風も強くなり、海から潮のかおりを運んでくる。海の匂いを感じるなんていつ以来だろう。


 気温ほどには成果は上がらず、想定の範囲内ですべてが終わった。


 この場所に来ると必ず寄る駅前の小さな新刊書店。老夫婦だけでやっている店なので毎年無事にあるかがいつも気になるのだ。今年も店は開いており、おばあちゃんの姿がレジにあった。ただ、昨年までは見たことのない女性がおばあちゃんのサポートをして横についている。娘さんかもしれないが、明らかに僕よりも年配の女性であるから、この店の高齢化問題は依然解消されてはいないんだろうな。


 今日はこのマンガを買う。



 3ヶ月ほど前に出た本なのだが、このいぶしたような煮出したような時代がついている店では今日並んだ新品のようにピカピカ輝いて見えた。横浜の海近くにあるこの店で買うのにちょうどいい本だろう。



 午後2時過ぎに終わるこの仕事の後は、いつもなら東京へ出て本屋や本のイベントなどに行くのだが、今日は予定があって家に直帰する。


 家に戻って野外仕事着からワイシャツ・ジャケット姿に着替えて、駅前にある業者のオフィスへ向かう。部屋に通されると机の上にはペン立てと書き物用のテーブルシートが置かれ、なにやらモノモノしい感じだ。その後業者からコマゴマとした説明があり、回数を覚えていられないほどの「住所・氏名・印鑑」の書類作業があって、最後に手付金を払って3時間ほどで終了。これまでの人生で最大の買い物をしたことになる。まあ、買い物が終わったというよりは、始まったといった方が適切だろうな。これから年末にかけていろいろ忙しくなりそうだ。



 部屋に帰り、しばらくぼうっとしてしまう。さっきまでのことが現実のことなのか実感があまりわかない。そうはいっても目の前に書類の束が入った厚くて重いケースがあるのだから間違いなく現実なのだが。そう思いながら、本で埋もれた部屋を見回す。この本たちもかなり整理しなければいけないだろう。先送りしてきたその課題と取り組むための決断でもあったのだから。


 本の山の一番上にある昨日買った2冊の文庫本を手に取る。


読書の腕前 (光文社知恵の森文庫)

読書の腕前 (光文社知恵の森文庫)



 瀬戸内本はカバーに横尾忠則画がバーンと載っていてインパクト充分。単行本の時は内容に興味はあったのだが、カバーの絵が僕には強すぎて買う気になれなかった。文庫サイズになったことで僕好みの強度の絵になった。今後も続刊が出て4冊シリーズになるらしい。
 それに対して「読書の腕前」のカバーはとてもシンプル。塩と胡椒のみで素材のうまさを味わうといった感じの装幀だ。帯にピース又吉の写真と「又吉直樹さん推薦」の文字がバッチリ載っているため、一瞬彼の本かと思ってしまう。最近の知恵の森文庫のラインナップは以前ほど買いたいと思うものがなかったので、この本で久しぶりの再会となった。


 「読書の腕前」の「文庫版あとがき」を読んでいて、親本の光文社新書を書いたときの岡崎さんが今の僕と同じ年齢であったことを知る。この歳になってやっと借り物ではない、自分の部屋を持つことになる。さて、新しい場所に誰を連れて行くか、どこへ置いてやるか、しばらくは吉原へ冷やかしにきた男のように格子の向こうの古書たちを眺めて回る日々が続きそうだ。