2つの月。

 今日は有休をとった。午前中に頼んでおいたラックが届くことになっているので。

 

 コロナ禍で一時期自宅勤務になった2年程前からリビングのテーブルにPCを置いて仕事机として使い始めた。他の部屋の加湿機能付き空気清浄機をリビングに集合させ、エアコン使用もリビングだけとして籠もる生活のかたちを作った。

 

 そうするとリビングのテーブルの周りに平積みとなった本が山となり、いつの間にか広かったはずのテーブルの上も本や書類で肘の置き場もない状態となってしまった。そこで、テーブルの脇に5段のラックを本棚代わりに置き、そこに本や書類を入れ、入らないものはすべて他の部屋に移動させることにしたのだ。

 

 昼に届いたラックを組み立て、そこにテーブルの上の本を移動。久しぶりに広々とした作業スペースを確保できた。

 

 中炒りの豆でいれたコーヒーと昨日の残りのチーズケーキで一息つく。作業スペースを確保できたからといって特に何をするわけでもなく、レコードを聴いたり、本を少し読んだりするだけで時間が過ぎていく。

 

 2時46分になった。職場では同僚たちが黙祷をしているだろうと思いながら、自宅で黙祷。毎年この日は職場にいるので、ひとりでの黙祷は初めてだと思う。その後、アン・サリーのCD(「森の診察所」・「Bon Temps」)で「満月の夕」を2種類のバージョンで聴く。

 

 それから夕方まで曾根博義伊藤整モダニズムの時代ー文学の内包と外延」(花鳥社)から「ジョイス受容史の点と線」という続き物を読む。伊藤整は「フロイト精神分析ならびにジョイスの「意識の流れ」の紹介者、導入者」として文学史に登場した。伊藤整がどのようにジェイムズ・ジョイスを知ったのかを日本におけるジョイス受容史を通して描き出す連作。そして話は伊藤整とともに「ユリシーズ」本邦初訳の難事業に取り組んだ永松定、辻野久憲へと進んでいく。

 

 

 もともと今年「ユリシーズ」を通読しようと思ったのは、この2年延期になっているロンドンとダブリンの海外研修が今年も中止となったことを受けて、行けないのであればせめて小説の中でダブリンを訪ねようというくらいの気持ちであった。曾根先生の遺稿集は一年ほど前に出たもので、少しずつ楽しみながら読んできた。そこにジョイスが出てくるので楽しくなる。本来なら昨年読み終わっているはずのこの本にここまで時間がかかったのは、仕事上のいろいろで本を読む気になれない日が多かったのと、途中で曾根博義「私の文学渉猟」(夏葉社)が出たのでそちらを先に読んでしまったためである。

 

伊藤整とモダニズムの時代 文学の内包と外延

 

 同じ筆者の本を2つ同時に楽しめるのは嬉しい限りだ。空の西と東に月が2つ出ているようなものかなと思ったのは、2つの「満月の夕」を聴いたからかもしれないし、「1Q84」からの連想かもしれない。

 夕食は豆腐のアヒージョとポテトサラダとなめこの味噌汁。

 

 PASSAGEから本が2冊売れたとメールが入る。補充する本を選ばなければと思う。