本の蟲の店−苔と亀と星の蔵書。


 せっかくの盆休みを京都一泊だけで終わらせてしまうのはもったいないと思い、ネットで新幹線のチケットとホテルの予約を入れて新横浜8:29発のぞみ15号とこだま739号を乗り継いで新倉敷へと向かう。



 今回は三人掛けの通路側。キーボードをパタパタ叩く人はいなかった。車中の読書はこれを。


原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)


 この7月に出た新刊で、広島の原爆を描いた「夏の花」で知られる作家だけにこの夏に合わせての出版なのだろう。岩波書店の力の入れ方が、珍しい二重カバー仕立てであることからもわかる。原民喜の写真を使った外カバーが目を惹く。ちょっと長めの髪をアップにした鼻筋の通った顔立ちはなかなか魅力的であると思う。

 序章は、昭和26年3月13日に中央線西荻窪−吉祥寺間で起こった原民喜の鉄道自殺から始まる。“原民喜=広島”というイメージしか持っていなかったので、彼が中央線沿線の文士の一人であったことに驚く。自分がいかにこの作家に関して無知であったかを思い知らされる話が次々と出てきて引き込まれた。広島の裕福な繊維商の子供として生まれ、コミュニケーションが極端に苦手な少年は文学に生きる道を見出し、慶應大学へ進学。同じクラスには山本健吉・蘆原英了・瀧口修造・北原武夫などがいた。特にのちの文芸評論家・山本健吉とは関係が深かった。そして、人と関わることが苦手であった原民喜が信頼し、その身を投げ出すように頼った妻・貞恵と結婚。その貞恵の弟がこちらも文芸評論家の佐々木基一であることも初めて知った。その妻に先立たれ、戦時中に広島に戻った昭和20年8月6日に被爆。被災した家を離れ、避難する中で見た惨状をメモにとり、それが「夏の花」に結実して行く。妻を失い、小説家としての自分をも見失おうとしていた彼は、この体験を作品として残すことを自分の生きる目的とすることで戦後を生き延びて行く。そして、後輩にあたる遠藤周作との交流。遠藤周作原民喜にこのような交わりがあるとは知らなかった。原民喜遠藤周作宛の遺書は、遠藤が留学中のフランスに届けられることになる。晩年の原と遠藤との間に不思議な友情関係を結んだ若い女性の存在など興味深い内容が詰まった本だ。


 新倉敷で新幹線を降り、山陽本線に乗り換えて10分程で倉敷駅に着く。時間は12時過ぎ、小雨が降り、湿度が高い。駅からしばらく歩き、美観地区の入り口近くにあるコートホテル倉敷が今日の宿だ。フロントに大きな荷物を預けて美観地区の中へ。倉敷には前に一度来たことがある。もう20年以上前だ。仕事で来て、午後遅くに着き、倉敷駅前で関係者を待ち受け、そのままホテルに入って翌朝早くに次の目的地広島に向かったためほとんど街を歩いた記憶がない。ただ、美観地区を流れる倉敷川沿いの道には多少の見覚えがあった。しかし、その周辺の昔の風情を残した街並みの記憶はまったくない。たぶん現在ほどは整備されてはいなかったんだろうな。


 この倉敷川沿いから一本奥に入った本町通りへ。この通りに今回の旅の目的とも言える古本屋・蟲文庫があるのだ。以前から一度は行ってみたいと思っていた本屋のひとつ。店主の田中美穂さんにはずいぶん前になるが古書往来座外市の時にお会いしたことがある。田中さんの書いた「わたしの小さな古本屋」(洋泉社)を読み(その後ちくま文庫に入り、それも持っている)、倉敷でコケと亀と星と本に囲まれたその店に行くのを楽しみにしていたのだ。店に入ったらそれなりの時間を棚の前で過ごすだろうことは分かっていたので、まずは腹ごしらえ。


 蟲文庫の並びにジャズ喫茶を発見する。“アヴェニュウ”という店で、ドラムセットやピアノが置いてあり、夜はライブもやる店らしい。開店間際らしく僕以外の客はおらず、声を掛けたら女性がカウンターの奥から出て来て、店内にジャズがかかる。ジャズ喫茶らしくいい音でジャズが鳴っている。カルボナーラとコーヒーを注文。カルボナーラは喫茶店王道の味でうまい。パスタではなくスパゲッティーと呼びたくなる。


 腹を落ち着けて、蟲文庫へ。まず、田中さんへご挨拶をしてから、店内の棚を何回も見て回る。コケと亀と星の本を出されている田中さんの店らしく、人文書メインではあるが、自然科学の本もしっかりと場所を占めている。仕事関係の本の他に、次のようなものを購入。


ときめくコケ図鑑 (Book for Discovery)
原民喜童話集 [ 原民喜 ]




 「ときめくコケ図鑑」は、出ていることを知らなかった田中さんの本。これまで出た「苔とあるく」「亀のひみつ」「星とくらす」の三部作(?)は持っているのだが、これは未見。


苔とあるく
亀のひみつ
星とくらす



 「原民喜童話集」はケースの中に2冊本が入っていて、1冊は童話集、もう1冊は別巻として原民喜に関する5人のエッセイが収められている。その中に田中美穂さんの文章も入っている。さっきまで「原民喜」を読んでいたのでこれは手に入れておきたい。



 本を選んでいる最中に入って来た客が田中さんに「どこに行けばコケが見られるか」、「コケを見るルーペはどこのメーカーのものが良いか」などを聞いている。他の古本屋ではまず見られない光景だろうなあとそのやり取りを楽しく聞く。夏休みになると自由研究の課題に悩む子供たちが来て田中さんのコケの本を買って行くらしい。コケならこの周りで簡単に見つけることができるため、手頃な研究対象なのだろう。


 この8月末に出る「本の虫の本」(創元社)の見本を見せてもらう。田中さんの他に、林哲夫さん、岡崎武志さん、荻原魚雷さん、能邨陽子さんが本のことについて書いた本。題名は「“本の虫”たちが書いた本」という意味なのだろうが、当然「蟲文庫」が意識されているのだろうなと思う。販売されていたら、この店で買いたかったのだが、残念ながらちょっと早かったようだ。


本の虫の本


 田中さんとゆっくり話をさせてもらい、のんびりとした時間を過ごしてからおいとまする。せっかく倉敷に来たんだから大原美術館には寄っておきたい。「ブラタモリ」の倉敷の回で大原美術館の来歴について少しかじったので興味があった。ここにモネ、エル・グレコゴーギャンドガ、ミレーなどの名画が収蔵されてたため、太平洋戦争中の米軍が空爆の対象から外したということもテレビで知った。それらの西洋の名画もよかったのだが、個人的には日本人画家の絵を収めた分館に松本竣介「都会」があり、それを見られたことがうれしかった。あることを知らずに急に目の前にあの独特な青と白の世界が大きな絵で現れた驚きと喜びで入館料のもとは取れたと思う。


 その他に、知人に勧められた“平翠軒”という日本や外国の名産品を扱う店で、フランスの岩塩や広島呉の鶏皮の缶詰などを購入する。


 夕食をどこで食べようかとあちこちうろついて倉敷駅へ向かうアーケード街の名代とんかつ“かっぱ”という店の前に行列ができているのを発見する。とんかつにはそそられるが蒸し暑いこの気候の中で長時間店の前で待っている気にはならず、美観地区へ引き返し、“レストラン亀遊亭”でカツレツを食べる。もう少し、庶民的な店に入りたかったのだが、この美観地区の店は6時を過ぎるとほとんど閉めてしまうので、選択肢は一握りしかないことになる。本来なら、ディナーコースを頼む客を相手にしたい店なのだろうが、ひとりでコースは間が持たないので単品料理とパンで勘弁してもらう。それなりの値段のするカツレツは美味しかった。


 夜は、スマホでジャズを聴きながら、ホテルのベッドで読書。

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