ぽかん、ぽかんと海鳴り聞いてノアの箱舟今日を行く。


 朝7時起床。シャワーを浴びて着替え、四条烏丸の交差点まで出て蛸薬師通にあるマエダコーヒー本店に行く。この近くに泊まった時はここでモーニングを食べるのが定番となっている。GWということもあり、いつもより混んでいる感じ。運よく席が空いていたので入れた。オレンジジュースでイギリスパンのトーストを食べていると向う正面の親子連れの席から声が聞こえる。「〇〇ちゃん、私はあなたのお母さんなのよ。お母さんにそんなことしていいと思っているの。お母さんにそんなことする人はこの後とんでもないことになるわよ」三、四歳と思われる〇〇ちゃん(男子)はその声を避けるように隣のフロアの方へ出て行った。〇〇ちゃんも「ケズラレ」にならなければよいがと余計な心配をする。「私たちの方が早く注文したはずなのにあっちの方が先に来るのはおかしいわよね」と母親の声が続いている。スクランブルエッグとベーコンでもう一枚のトーストを平らげ、ブレンドコーヒーを飲んでいると斜め前のテーブルに座っている30台後半と思われる夫婦の姿が目に入る。僕がこのテーブルに座る時に二人はそれぞれスマホの画面を見ていて全く会話をしていなかった。そして、食事をとっている現在も、一言も会話を交わしていない。もうスマホは見ていないので、何らかの理由でSNSを介してではないと会話をしないという訳でもなさそうだ。コーヒーを飲み干して僕が席を立つのとその席の夫がレジへ向かうのがほぼ一緒であった。妻の方は僕の後から距離を置いて歩いて来る。夫婦の後に会計を済ませて店の前で佇んでいる二人の横を通ったがやはり一言も発していなかった。旅行客のようだったが、喧嘩をしているという風でもなく、しかし、一言も言葉を交わさないその姿が妙に印象的であった。

 ホテルに戻り、荷物をまとめてチェックアウト。地下鉄で京都駅に出て、ボストンバッグをコインロッカーに預け(どこも一杯で空いているのを探すのに一苦労した)、ショルダーバッグのみの身軽な姿になってまた地下鉄へ。烏丸線から東西線に乗り換え、東山駅へ。目指すはみやこめっせ。京都には本好きのよく知る三大祭りがあり、みやこめっせの春の古書大即売会、下鴨神社の夏の古本まつり、知恩寺の秋の古本まつりがそれである。夏の下鴨は数回参加しているが、春・秋はまだ行けていない。ただ、仕事で秋の古本まつりを翌日に控えた知恩寺前を通ったことはある。みやこめっせにはまだ足を踏み入れていないのだが、明日まで開催中と知っては行かないわけにはいかない。堀に囲まれた石垣の上に立つみやこめっせはまるで城のようである。緑に囲まれた堀の緑色の水の上を遊覧船がこちらに向かって来る。日差しも強く、すでに京都は初夏の装いだ。堀を越えて会場へ入る。ひと頃までよく東京の百貨店で行われていた催し場を使った古本まつりと同じ形に設営されているのだが、天井が高いのと棚と棚の幅も広めにとっているため開放感があり、気持ちよく本を探すことができる。ただ、これだけの棚をじっくり見始めたら今日一日がここで終わってしまいそうなので、とりあえず全ての棚を駆け足で見て、1冊だけ選ぶ。


 今はなき出版社リブロポートから出ていた“シリーズ民間日本学者”の1冊。以前、このシリーズの本を集めていたのだが、引越しの時にそのほとんどを売ってしまった。しかし、あの「天文台日記」の石田五郎の本となれば持っていたい。文庫化もされていないはずだし。



 みやこめっせを後にして、出町柳まで電車で行き、いつものレンタサイクル屋で自転車を借りる。天気は上々(少し暑すぎるくらい)だ。鴨川沿いを丸太町通まで戻り、橋を渡って誠光社へ。これで2回目なのでほぼ迷わず到着できた。木枠のドアを開けて店内へ。今回の京都本屋巡りで手に入れたいものが二つあり、その一つは『ぽかん』6号。このミニコミを以前はトマソン社の通販で購入していたのだが、その通販休止の今、手に入れるのに京都ほど確率の高い場所を思いつけない。ミニコミが店内のそちこちに置かれているこの店ならと思い、聞いてみるが「置いていない」とのこと。それでは、代わりに東京で買いそびれていたこれをレジへ。

  • 前野健太「百年後」(スタンド・ブックス)


百年後



 また、自転車にまたがり、三条通を越してすぐに高瀬川沿いから鴨川沿いに左折するとそこにホホホ座三条大橋店がある。昨年冬にできたばかりのホホホ座の支店で、食事もできる場所であると知り、今日の昼食はここで食べようと思っていた。小ぶりの店内に本や雑貨が置かれていて、小さいカウンター席がある。食事のメニューはほぼカレーセットオンリーという感じなので、それを頼む。出て来たカレーはカレーの色というよりはトマトソースの色をしており、食べてみるとやはりトマトの味がする。そしてトマトの向こうからカレーのスパイシーな味わいがジワっと出て来てなかなか美味い。濃いめのアイスコーヒーとともに完食する。ここでも『ぽかん』は見つからず。





 三度サドル上の人となり、御池通に出て京都市役所の横を曲がって梶井基次郎が「檸檬」を買った八百屋跡を通って三月書房へ。ここで『ぽかん』を無事入手。もう一つ手に入れたいものを手中にするためこの店の定番商品とも言える編集工房ノアの本からこちらを選ぶ。


日は過ぎ去らず―わが詩人たち (1983年)


 詩人である著者がその文学活動を通して識った詩人たちのポルトレ集。そしてもう1冊。


岩本素白 人と作品


 来嶋先生とは面識はないのだが、一年に一度の割合で仕事関係のイベントで壇上に立つ来嶋先生の挨拶を会場の片隅で聞くということを繰り返しているので、勝手に知り合いのような気持ちになっている。そして内容が素白随筆をめぐる評伝とくれば持っていたい。


 これらをレジに持っていくと店主の方が、「これはお持ちですか?」と『海鳴り』29号をそっと差し出してくれるではないか。「持っていません」と力強く答える。何せ、これが欲しくてここに来たようなものなのだ。これまでの経験から三月書房で編集工房ノアの本を買えばかなりの高確率で『海鳴り』がもらえることを僕は知っている。この編集工房ノアのPR誌(無料)を手にして“確信犯”としての笑みを浮かべる。


 そこから自転車は出町柳まで戻り、今出川通銀閣寺方面へ走る。百万遍京都大学前の緩い坂を登り切るとそこに古書善行堂がある。山本善行さんは僕の好きなジャズピアニストであるソニー・クラークのCDを流して待ってくれていた。
 いつものように山本さんと2時間近くあれこれと話す。そして棚をじっくりと見てあれこれと本を買う。


 この他に岡崎武志・古本屋ツアー・イン・ジャパン編著「中央線古本屋合算地図」(盛林堂書店)や『モモイトリ』(古書モンガ堂)などのミニコミもいくつか買った。すでにショルダーバッグはパンパンに膨れ上がっている。

 
 善行堂を出て、出町柳で自転車を返し、電車でまた京都市役所前に戻る。自転車に乗って運ぶのは難しいアナログレコードを買うためだ。以前は鴨川沿いの雑居ビルにあったワークショップレコードが、市役所横のこちらもレコードを扱っている本屋100000tアーロントコの上の階(3F)に移転していたのでここに戻って来たというわけ。モダンジャスのコーナーで先ほど善行堂で聴いていたこれを見つける。


Sonny's Crib



 CDは持っているが、アナログ盤は持っていないためこれに決める。



 京都駅へ行く。帰りの新幹線まではまだ時間があるので、お茶でも飲んでゆっくりしようと思ったがカフェや喫茶店はどこも満席で行列ができている。諦めて土産物売り場の西利のところへ来ると前にお茶漬けセットを食べたコーナーがガランとしているのが目に入る。食事処だから飲み物だけとはいかない。面白そうな漬物天ぷらうどんがあったので頼んでみたらこれが結構うまかった。漬物に味がついているからそのまま食べられるし、うどんの鰹出汁とも相性がいい。ここで時間調整してコインロッカーに入れてあったボストンバックに今日の収穫を詰め直し、17時18分発の新幹線のぞみ38号に乗り込む。運よく二人掛け席の隣は誰も乗ってこなかったため、ゆっくり気兼ねなく本が読めた。
 まず、もらって来た『海鳴り』から山田稔「『季節』を出していたころ」を読む。この冊子には『ぽかん』を編集発行している真治彩さんの文章も載っている。その『ぽかん』に移る。林哲夫さんのコラージュが表紙を飾るこの小冊子から扉野良人「父のチェーホフ(三)」、服部滋「W文庫盛衰記」、内堀弘千代田区猿楽町1−2−4(四)」を読む。服部さんはウエッジ文庫の編集者。この奇跡の文庫がどのようにしてできあがったのか(そしてどのように消えていったのか)の顛末を興味深く読んだ。最初に出た所謂ウエッジ文庫である岩本素白東海道品川宿」の編者は来嶋靖生。素白の存在とその編者の存在を僕はこの文庫で知った。今日「岩本素白 人と作品」を買った偶然に驚く。この「東海道品川宿」に出会ってから「知らないウエッジ文庫にはついて行く」という信条を持つに至ったのだった。


東海道品川宿―岩本素白随筆集 (ウェッジ文庫)


 2冊のつまみ読みを堪能した後、今回の旅程で読もうと持って来た本を取り出す。岡崎武志還暦記念イベントに参加するのだから岡崎さんの本を1冊持ってこようとしてカバンに入れたのがこれだ。

ここが私の東京

 カバンに入れた時にはなんで京都に行くのに、地方から東京へ上京した文学者・芸術家たちのポルトレ集であるこの本を持って行くのかと自分ながら思ったが、京都から東京駅へ向かう新幹線の中で広げてみるとこれほどしっくり来る本もないと思える。佐藤泰志出久根達郎庄野潤三司修と読み進める内に新横浜に到着した。ここが私の京都だと言える場所を巡った一泊二日の旅が終わった。